メインコンテンツへスキップ
見出し画像

『豊かさ』【エッセイ】二六〇〇字

     生年月日がまったく同じ八代亜紀の訃報を、KO病院のHCUのベッドでうなっている最中に聞いた。三年前のことである。
     「享年まで同じになるのか」。そんな覚悟もしたが、どうにか生き延びた。その後も通院を続けながら、順調に健康を取り戻していた。少なくとも、そう思っていた。
     ところが、この八月、急激な黄疸症状に襲われ、再び緊急入院。
     「またか……」。さすがに落ち込んだ。だが、今度は十日ほどで退院できた。新たに追加された薬剤による副作用だったようで、薬を止めると急速に回復。と同時に健康への自信も蘇った。
     そして、「最低でも、あと十年は長生きしてやろう」。そう決めた。
     だったら、残りの人生を気持ちよく過ごしたい。二十年暮らした部屋を整理し、不要なものを断捨離して、終の棲家を自分好みに改装しよう。「プチ・リフォーム」を始めた。
     健康づくりにも熱が入った。二十年続けているウォーキングと、四年前に左脚を痛めたことをきっかけに始めたジム通い。その時間帯を早朝に切り替えた。ところが、張り切りすぎたのか、今度は右脚を痛めてしまった。せっかく生き延びたというのに、歩くことさえ不自由になってしまったのだ。
    人生、なかなか思いどおりにはいかない。(◎_◎;)笑
     「断捨離リフォーム」が、ようやく終わろうとしていた矢先のことである。
     家具の移動や断捨離は、大学時代からの親友にずいぶん手伝ってもらった。三年前の退院時にも、なにかと世話になった友人である。独立前十七年勤めた翻訳教育会社時代から四十年世話になっているメディアに詳しい友にも、パソコン環境を整えてもらった。ところが、最後に粗大ごみが数点残った。これくらいは自分で運び出そうと思ったが、脚がいうことをきかない。
    困って調べてみると、新宿区は、高齢者などを対象に、粗大ごみを室内から運び出してくれるサービスをやっているという。
     うれしかった。
     単に手間が省けるからではない。昨日までできていたことが、今日はできない。そんな立場になって初めて、社会に支えられるありがたさを知ったのである。こんなところにも、人間の暮らしを支える仕組みがある。
     ふと、「豊かさ」という言葉が浮かんだ。

     考えてみれば、人間は自分の意思だけで生きているわけではない。生まれたばかりの赤ん坊は、誰かの世話なしには生きられない。病気になれば医療者の力を借りる。歳を重ねれば、それまで何でもなかったことが難しくなる。若い頃には、そんなことをあまり考えなかった。自分の力で働き、自分の力で暮らしているつもりだった。
     しかし、そうではなかったのだ。

     そして、人間には、もっと根本的に自分で選べないことがある。生まれることである。裕福な家庭に生まれるか、貧しい家庭に生まれるか。健康な身体に恵まれるか、そうでないか。どの国に、どんな時代に生まれるかさえ選べない。
     すべて偶然である。にもかかわらず、その偶然によって、その後の人生が大きく左右される。
     十分な教育を受けられる子どももいれば、家庭の事情で進学を諦める子どももいる。必要な医療を受けられる人もいれば、経済的な理由で受診をためらう人もいる。
     それでよいのだろうか。

     アメリカの政治哲学者ジョン・ロールズは、『正義論』で「無知のヴェール」という思考実験を示した。
     自分が裕福な家庭に生まれるのか、貧しい家庭に生まれるのか。どのような能力や境遇を持つのか。それらを知らないまま、社会の仕組みを決めるとしたら、どんな制度を選ぶだろう。少なくとも、生まれた家庭によって教育や医療の機会が大きく左右される社会を、進んで選ぶ人は少ないのではないか。

     そもそも、国家とは何のために存在するのだろう。
     国民は、国に住まわせてもらっているわけではない。たまたま、その国に生まれたのである。ならば国家には、そこで暮らす人々が、自分なりの人生を送れるよう、制度を整える責任があるはずだ。

     日本国憲法第25条は、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を保障している。
     もちろん、最低限度の生活を保障することは大切だ。しかし、国家の役割は、そこまででよいのだろうか。人は、ただ生き延びるためだけに生きているわけではない。
     好きな本を読み、友人と語り合い、旅をする。家族と過ごす。趣味に打ち込む。あるいは、何もしない時間を楽しむ。何を豊かと感じるかは、人それぞれである。
     国家が「これが豊かな人生だ」と決める必要はない。むしろ、決めてはならない。その代わり、誰もが自分なりの豊かさを追求できる条件を整える。

     それが国家の仕事ではないか。

     例えば、教育や医療。
     家庭の経済状況によって、受けられる教育や医療に大きな差が生まれないようにする。
     そして、労働時間。
     生活のために働くことは必要だとしても、働くことだけで人生が終わってしまっては、何のために生きているのかわからない。できる限り労働時間を短くし、自分の時間を取り戻せる社会にする。

     『人新世の「資本論」』の経済思想家・斎藤幸平氏が唱える「脱成長」の議論にも、こうした問題意識がある。際限のない経済成長を追い求めるより、教育や医療など、暮らしを支えるものを社会で共有し、自由に使える時間を増やしていく。豊かさを、所得や消費の多さだけで測らないという考え方である。

     振り返れば、私が人生で最も豊かだったと感じるのは、学生時代かもしれない。
     金はなかった。それでも、時間があった。友人がいた。やりたいことがあった。何より、明日をどう使うか、自分で決められた。あの頃の豊かさは、預金通帳の残高とは、ほとんど関係がなかった。

     七十代半ばになって、ようやくそんなことを考えている。しかも、きっかけが粗大ごみとは。ずいぶん所帯じみた哲学である。(◎_◎;)笑
     だが、今回うれしかったのは、不要な家具を処分できることだけではない。身体が不自由になっても、暮らしを続けるための仕組みが用意されている。そのことを知ったからである。人間は、生まれる国も家庭も選べない。歳をとることも止められない。しかし、どんな社会をつくるかは、私たちが選べる。

     誰かが弱い立場になったとき、その人の人生の可能性まで狭めてしまう社会にするのか。それとも、必要な支えがあれば、なお自分らしく暮らせる社会にするのか。

     「豊かさ」の答えは、一人ひとり違っていい。
     その答えを探す自由だけは、生まれた偶然によって奪われない社会であるべきだ。

    (おまけ)
    やはり、龍のことでしたか。

    画像
    東京新聞朝刊(2026年10月28日)
     
     
    北海道・富良野市麓郷(「北の国から」舞台)など七つの田舎町出身。伊勢丹のWebデザイン会社をやっていました。早大EC「エッセイ教室」を(勝手に)卒業し、いちおうエッセイスト (◎_◎;) 大酒が祟り、二年前、1か月間入院。現在、禁酒中・・・💦水曜日の週一投稿(9:00 Up)。

    あなたへのおすすめ