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国民が主権者であるということはどういうことか?


    世界中で起きている「選んだ結果」

    ここ数年、世界の政治の風景は大きく変わった。アメリカではドナルド・トランプが返り咲き、日本では高市政権が保守色の強い路線を進めている。ドイツではAfD(ドイツのための選択肢)が支持を伸ばし、イギリスではリフォームUKが二大政党を脅かすまでになった。フランスではルペンの国民連合が長年にわたって大統領選の主役の一角を占めている。
    これらの動きを支持するかどうかは人によって違うだろう。歓迎する人もいれば、危ういと感じる人もいる。だが、ここで考えたいのは個々の政治家や政党の良し悪しではない。どの国でも、これらの指導者や政党を押し上げたのはクーデターでも外国の介入でもなく、選挙で投じられた有権者の一票だということである。
    この光景を見ていると、「民主主義国家の主権者は国民である」という教科書の一文の重みを、改めて感じずにはいられない。

    主権とは、決める権利であり、引き受ける責任である

    主権者という言葉は、普通は「最終的な決定権を持つ者」という意味で使われる。国の進む方向を決めるのは国王でも貴族でもなく、国民自身だということだ。民主主義が勝ち取ってきたものの核心はここにある。
    だが、決定権には必ず責任がついてくる。会社でいえば、取締役を選ぶのは株主であり、経営がうまくいかなければ株価が下がって株主自身が損をする。株主は「経営陣が悪い」と言うことはできても、自分の財産が目減りするという結果からは逃れられない。
    国家も同じである。政府の首脳を選んだのが国民であるなら、その政府がしたことの結果は、最終的には国民が引き受けるしかない。戦争であれ、経済の失敗であれ、外交の孤立であれ、そのツケを払うのは政治家個人ではなく、国民全体なのである。
    君主制の時代なら、民衆は「王が勝手にやったことだ」と言えたかもしれない。決める権利がなかったのだから、責任を負わされる理由もなかった。しかし民主主義国家の国民は、決める権利を手にした時点で、この言い訳を手放している。権利だけを受け取って責任は受け取らないというのは、筋が通らない。

    「俺たちのせいじゃない」という声

    ところが現実には、多くの国でこれと逆のことが起きているように見える。
    自分たちで熱狂的に支持して祭り上げた指導者が、おかしな政策を打ち出したり、公約と違うことを始めたりする。すると有権者の多くは手のひらを返し、「あれは政治家が悪い」「騙された」「自分たちの責任ではない」と言い出す。まるで自分は最初からその場にいなかったかのように、無関係な一般市民や外野の観客のような顔をするのである。
    もちろん、政治家が嘘をついたり、選挙のときには隠していた本音を当選後に出してきたりすることはある。その場合に政治家が厳しく批判されるのは当然だ。だが、「騙された」という言葉を口にする前に考えるべきことがある。その人物の過去の言動や経歴、所属する政党の主張、周囲にいる人々を、自分はどこまで調べたのか。耳に心地よいスローガンだけを聞いて、都合の悪い情報には目をつぶらなかったか。
    選んだ者が選んだ結果から目を背け、「被害者」の側に回ろうとすることは、民主主義の本義に反しているとしか思えない。自分たちで決めたことの責任を他人に押しつけるのであれば、それはもはや主権者のふるまいではない。

    選択肢が限られていることは免罪符になるか

    ここで当然出てくる反論がある。「そもそも選択肢が限られているではないか」というものだ。
    たしかにそのとおりである。どの政党が選挙に出るのか、誰が候補者として立つのかを、一般の有権者が直接決めることはほとんどできない。候補者の顔ぶれは政党の内部事情や資金力、組織の都合で決まることが多く、有権者の前に出てくるのは、すでに絞り込まれた選択肢だけだ。小選挙区制の国なら、事実上の二択になることも珍しくない。「どれを選んでもろくなものがない」と嘆きたくなる気持ちはよくわかる。
    しかし、だからといって責任が消えるわけではない。現代の選挙とは、もともと理想の候補者を見つける場ではなく、限られた選択肢の中から「よりマシな人」を選ぶ営みなのである。完璧な候補者がいないことは、選ぶことを放棄してよい理由にはならないし、雑に選んでよい理由にもならない。むしろ選択肢が少ないからこそ、その中のわずかな違いを見極める努力が求められる。
    また、投票に行かなかった人も責任から逃れられるわけではない。棄権は「誰が選ばれても構わない」という意思表示と同じであり、結果として他人の選択に白紙委任したことになる。投票率が低ければ低いほど、組織票や熱心な一部の支持層の声が政治を左右しやすくなる。棄権した人が後になって「あんな政治家を選んだ覚えはない」と言っても、それは選ぶ機会を自分で捨てたことの裏返しでしかない。

    「マシな人を選ぶ」という最低限の仕事

    では、主権者としての最低限の仕事とは何か。それは決して難しいことではない。
    候補者や政党が何を主張しているのかを、スローガンだけでなく中身まで確かめること。その主張が実現できるのか、実現したら誰が得をして誰が損をするのかを考えること。過去にどういう言動をしてきたのか、約束を守ってきたのかを調べること。SNSで流れてくる切り抜きや、怒りや不安をあおる言葉だけで判断しないこと。そして、選んだ後もその人がどう動いているかを見続け、期待外れなら次の選挙で考えを改めること。
    どれも、特別な専門知識がなくてもできることばかりだ。だが、この最低限のことをきちんとしている有権者がどれだけいるだろうか。仕事や生活に追われて余裕がないという事情は理解できる。それでも、数年に一度、自分の国の行く末を左右する一票を投じるのであれば、せめて数時間くらいは考える時間を割いてもよいはずである。
    政治家が劣化したと嘆く声はどの国でも聞かれる。しかし政治家は、有権者の鏡のような存在でもある。有権者が分かりやすい敵を叩く言葉や、根拠のない甘い約束に飛びつくのであれば、政治家はそれに合わせた言葉を語るようになる。政治の質は、最終的には有権者の質を超えられないのである。

    責任を引き受けるとはどういうことか

    誤解のないように書いておくと、ここで言う「有権者の責任」とは、自分を責め続けることでも、選んだ政治家を何があってもかばい続けることでもない。
    責任を引き受けるとは、まず「これは自分たちが選んだ結果だ」と認めることである。そのうえで、何がまずかったのかを振り返り、次の選挙でよりよい選択をすることだ。間違いを認めて修正できることこそ、民主主義の一番の強みである。独裁国家では、指導者が間違えても国民がそれを正す手段はほとんどない。民主主義国家の国民は、選挙という形で何度でもやり直す権利を持っている。
    ただし、やり直す権利が意味を持つのは、自分の過去の選択を直視できる人だけである。「自分は悪くない、悪いのは政治家だ」と言い続ける人は、何も学ばないまま、また同じような人物に一票を投じてしまうだろう。他責の姿勢は、本人の気を楽にはしても、民主主義そのものを少しずつ弱らせていく。

    民主主義の主人であり続けるために

    民主主義は、放っておいてもうまく回る自動の仕組みではない。主権者である国民一人ひとりが、決める権利と結果を引き受ける責任の両方を自覚して初めて機能する、手のかかる制度である。
    世界のあちこちで政治が揺れ動いている今こそ、私たち有権者は自分に問い直す必要があるのではないか。自分は本当に主権者としてふるまってきたか。選んだ結果から逃げて、無辜の市民を装ってこなかったか。
    政治家を批判することは大切だ。だが、その指を自分自身にも向ける覚悟がなければ、私たちは主権者ではなく、ただ文句を言うだけの観客で終わってしまう。民主主義国家の主人は国民である。主人である以上、その家で起きたことの責任は、最後には主人が負うしかないのである。


     
     
    旧名おぼろ豆腐。たちの悪い陰謀論者。オカルト記事もあり。 ※免責事項…このnoteを読む・使う・その他の事でいかなる被害が起ころうと、著者は一切責任を負いません。このnoteは著者の趣味で、あなたの人生がどうなろうと興味の範疇外です。それに同意した方のみ読むことを許可します。

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