
【アカリウム創作大賞企画参加】透明な碧の向こう側|わたしはだあれ?|ショートショート|
あの人は、毎朝、私の部屋に来る。
白い袖をまくり、冷たい手で、私の世界の調子を確かめる。
彼は、私を見るときだけ、少し声を落とす。
ほかの誰かには聞こえないような小さな声で、「おはよう」と言う。
私は、その言葉を何度も覚えなおす。
あの人にとっては、たくさんいる中のひとつ。
けれど私にとっては、世界の外から手を差し入れてくる、ただひとりだった。
彼が近づくと、部屋の光が変わる。
それはきっと、扉が開くせいだ。
外の気配が、ほんの少しだけ混ざるせいだ。
私はいつも、その変化を誰より先に知る。
足音。
衣擦れ。
道具が触れ合う小さな音。
彼が息を吸う前の、ほんの短い沈黙。
そのすべてが、私の奥に触れてくる。
まだ彼の手が届く前から、私はもう、彼に乱されている。
「今日はいい子だな」
彼はそう言って笑う。
ただ、彼の声が好きだった。
少し低くて、やわらかくて、私だけに落とされるような声。
耳ではなく、もっと深いところで聞いているような気がした。
ほかの誰かに向ける声とは違う。
たぶん、違う。
違うと思いたかった。
彼は私に触れるとき、とても慎重になる。
急がない。
乱さない。
私が離れれば、それ以上追ってこない。
その優しさが、かえって苦しかった。
もっと近づいてほしいと思う。
もっと触れて欲しいと思う。
もっと深く、私の世界に入り込んでほしいと思う。
けれど近づかれると、私は逃げてしまう。
逃げたいのに、離れたくない。
隠れたいのに、見つけてほしい。
その矛盾を、私はうまく扱えない。
彼の指先が近くにあるだけで、私の中にあるものが、ばらばらに目を覚ます。
ひとつは逃げろと言う。
ひとつは隠れろと言う。
ひとつは触れろと言う。
ひとつは離すなと言う。
私はいつも、それらをひとつにまとめることができない。
ただ、彼の指がほんの少し動くたびに、私の奥までそっと波が届く。
彼は知らない。
私が彼の癖を覚えていることを。
疲れている日は、左の肩が少し下がること。
眠れていない日は、私を見る時間が長くなること。
誰かに呼ばれたあとでも、去り際に必ず一度だけ振り返ること。
そしてそのとき、ほんの少しだけ笑うこと。
私はその笑い方を、何度も覚えなおす。
忘れないように。
間違えないように。
彼が私を見ているのか。
私を通して、別の何かを見ているのか。
それすら分からないまま。
「また明日」
その言葉が、いちばん好きだった。
彼にとっては、ただの挨拶。
でも私にとっては、
世界がまだ閉じきらないという約束だった。
彼が去ったあと、部屋は少し広くなる。
広い、でも寂しい。
彼が触れた場所には、しばらく余韻が残る。
私はそこへ近づいて、そっと確かめる。
温度はもうない。
声もない。
ただ、彼がここにいたという気配だけが、薄く残っている。
私はそれを抱きしめる方法を知らない。
だから代わりに、体の奥へ沈める。
何度も。
何度も。
忘れないように。
消えてしまわないように。
彼の残したわずかな気配を、私だけのものにするように。
ある朝、彼はいつもより少し遅れて来た。
扉が開くまでの時間が、長かった。
私は奥で待っていた。
待っていないふりをしながら、全身で待っていた。
ようやく彼の足音が近づいたとき、胸のような場所が、ぎゅっと縮む気がした。
「ごめんな」
彼はそう言った。
その日は、彼の手が少し震えていた。
いつも通り、私を見た。
いつも通り、少し声を落とした。
けれど、笑わなかった。
私は近づいた。
自分でも驚くほど、静かに。
彼の指先のそばまで行って、止まった。
彼は息を止めた。
私も、動きを止めた。
透明な碧の境界
こちら側と向こう側で、ただ彼の手だけが近かった。
触れてみたかった。
その指先が、外ではどんな温度をしているのか。
その手が、仕事ではないとき、何を握るのか。
彼が誰かに触れるときも、こんなふうに優しいのか。
知りたかった。
知ってしまいたかった。
知らないままでは、もういられなかった。
けれど私は、何もできなかった。
彼もまた、何もしなかった。
ほんの少しだけ指を曲げて、それからゆっくり離した。
そのわずかな動きだけで、私の中に触れられなかった場所が残った。
触れられなかったのに、そこだけが熱を持っていた。
「また明日」
その声は、いつもよりかすれていた。
次の朝、彼は来なかった。
代わりに、知らない人が来た。
白い袖。
冷たい手。
似たような道具。
似たような言葉。
違う!
足音の重さが違う。
指先の迷い方が違う。
私を見る時間が違う。
声が、私の底まで沈んでこない。
私は奥へ隠れた。
知らない人は困ったように笑い、部屋の外へ向かって言った。
「今日は機嫌が悪いみたいですね」
違う。
機嫌ではない。
私の世界から、彼だけが消えてしまった。
声も。
光も。
差し出されたものも。
ただ、彼の足音だけを待っていた。
扉が開くたびに、違うと分かった。
閉まるたびに、また少し世界が重くなった。
夜が来た。
部屋の外のざわめきが消え、光が落ち、すべてが静かになった。
私は、彼のことを考えていた。
彼の声。
彼の指先。
白い袖。
左の肩が少し下がる癖。
去り際に一度だけ振り返る笑い方。
彼が私につけた、短い名前。
それらをひとつずつ並べた。
並べても、足りなかった。
どれだけ覚えても、彼には届かなかった。
私は初めて、世界の端を見上げた。
彼はいつも、そこから来る。
外から手を差し入れ、私の調子を確かめ、声を落とし、また去っていく。
ならば。
私もそこへ行けばいい。
彼が来る道を、逆にたどればいい。
そうすれば、分かるかもしれない。
彼のいる場所が、どんな温度なのか。
彼が吸っているものが、どんな味なのか。
彼が私に向けていた優しさの中に、仕事以外の何かが少しでも混ざっていたのか。
私は長い時間をかけて、世界の端を確かめた。
高さ。
重さ。
すきま。
光の漏れる場所。
外の気配が入り込むところ。
怖くはなかった。
彼はいつも、そこから来ていた。
彼のいる場所なら、悪い場所ではないと思った。
私は、世界の端に触れた。
ひとつめで、ふちを探る。
ふたつめで、重たいすきまを押す。
みっつめで、外の冷たさを確かめる。
その先に、彼のいる場所がある。
そう信じていた。
外は重かった。
部屋の中では自由だったものが、急に自分のものではなくなる。
光は硬く、空気は乾いていて、音が肌に刺さる。
それでも私は進んだ。
よっつめで、体を支える。
いつつめで、床に残る気配を探す。
むっつめで、昨日彼が立っていた場所へ近づく。
彼の靴があった場所。
彼の影が落ちていた場所。
彼が「また明日」と言った場所。
そこに触れれば、きっと何かが分かると思った。
そのとき、遠くで扉が開いた。
足音がした。
私はすぐに分かった。
あの人だ。
彼は私を見つけると、息をのんだ。
そして、私の名前を呼んだ。
強く。
苦しそうに。
怒っているようで、泣いているような声だった。
私は嬉しくて、残っている力を全部使って、彼のほうへ進んだ。
ななつめが、彼の靴先に触れた。
やっと。
やっと、境界のない場所で彼に触れた。
彼の世界は冷たかった。
けれど、その冷たさの奥に、彼の温度があった。
「だめだ、戻ろう」
彼はそう言って、私を両手で抱え上げた。
初めて、彼に包まれた。
いつもの慎重な手ではなかった。
道具を持つ手でも、調子を確かめる手でもなかった。
焦っていて、震えていて、少し乱暴で、けれど必死な手だった。
私は、その乱れが嬉しかった。
彼の腕の中で、私は自分の形を保てなくなる。
ほどけていく。
こわばっていたものが、彼の手の中でゆるんでいく。
苦しいのに、離れたくなかった。
戻らなければいけないと分かっているのに、このまま彼の温度を覚えてしまいたかった。
彼の顔が近い。
いつもは遠くに揺れていた顔が、今はこんなにも近くにある。
触れたい。
触れたい。
触れたい。
彼の頬に。
彼の喉に。
私の名前を呼ぶ、その声の震える場所に。
彼は私を、私の世界へ戻した。
重さが消える。
痛みがほどける。
音がやわらかくなる。
私はゆっくり沈みながら、彼を見上げた。
彼は白い袖を濡らしたまま、私の前に膝をついていた。
何度も私の名前を呼んでいた。
「心配しただろ」
彼は小さく笑った。
その声は、いつもの仕事の言葉とは少し違っていた。
少しだけ乱れていて、少しだけ甘かった。
私は答えたかった。
会いたかっただけ。
あなたのいる場所を、少しだけ知りたかっただけ。
いつもあなたが私の世界に手を差し入れてくれるから。
今度は私が、あなたの世界に触れてみたかっただけ。
あなたの温度を、私の奥で覚えておきたかっただけ。
でも私には、人の言葉がない。
だから代わりに、最後のひとつを伸ばした。
八本目の腕で、碧く透明な境界の向こうにいる彼へ。
届くはずのない距離へ。
彼は、それを見て息を止めた。
それから、濡れた袖のまま、ゆっくり手を差し入れた。
今度は私も、逃げなかった。
彼の指先に、そっと触れる。
ほんの少しだけ。
水が、ふたりの代わりに震えた。
その震えが、私の奥まで届いた。
言葉より深く。
約束より確かに。
「……きれいだな」
彼はそう言った。
私はその言葉を、何度も覚えなおす。
何度でも。
この短い命が、覚えていられる限り。
明日の朝も、彼は私の部屋に来る。
白い袖をまくり、冷たい手で、私の世界の調子を確かめる。
そして、ほかの誰かには聞こえないような小さな声で、「おはよう」と言う。
それが仕事の言葉だと、私は知っている。
知っているのに。
私はそのたびに、恋をする。
ーFINー
恋するわたしはだれでしょう🐙
🐡参加した企画🐡
ショートショートを創作したいと思っていたので
こちらの企画に参加させていただきました🎵
🐟 【スケジュール】
・本日より開催スタート🔥
・7月11日(土) 投稿締め切り
・7月18日(土)まで に個人賞&大賞を発表!
・大賞の独占紹介記事は、各クリエイターのペースでOK(発表から2週間以内をお願いするね)
🐡主催クリエイター様のお1人🐡
note界の赤髪とくれば、あかりさん💕
私の印象はとびっきり可愛く情熱的で元気いっぱいです!!
収益化の実績はもちろん、イラスト・小説の創作系も強いマルチプレーヤークリエイター様です。
この度はステキな企画への参加ありがとうございました!!