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短編小説【山灯館へようこそ〜人も妖もお客様です〜】

    こんにちは、猫丸にゃん仔です。

    短編小説
    【山灯館へようこそ〜人も妖もお客様です〜】をお届けいたします。

    猫丸・原案、ChatGPTとGeminiの共同制作です。

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    山灯館へようこそ〜人も妖もお客様です〜


     山を一つ越えて。
     さらに山をもう一つ越えて。
     すれ違いも困難なほど細くなり、アスファルトの舗装すら怪しくなってきた山道を、エンジンの高鳴りを響かせる路線バスに揺られること一時間。

     ガタゴトと車体を揺らす終点で降り立つと、そこからは携帯の電波すら怪しい領域だ。迎えの古びた軽トラに乗り換え、さらに細い砂利道を走ること三十一分。

    「……相変わらず、とんでもないところにあるなぁ」
     開け放した車窓から流れ込んでくる青く冷たい風を感じながら、小春は苦笑いを漏らした。

     車窓の外に広がるのは、見渡す限りの鬱蒼とした山、山、山。
     色鮮やかな看板を掲げたコンビニなんて当然ない。
     日常の買い物を支えるスーパーもない。
     信号機すら、最後に見たのがいつだったか思い出せないほどだ。
     そんな人里離れた山奥の、さらにその奥。
     ぽつんと身を潜めるように建つ一軒の温泉旅館。
     それが――小春の生家であり、実家であった。
    「はい着いたぞ、小春。荷物、重いの降りたか?」
    「ありがと、お父さん。大丈夫、持てるよ」
     使い込まれた軽トラの助手席から降りる。
     途端に、じんわりと懐かしい匂いが小春の鼻腔をくすぐった。
     雨を含んだ山の湿った土の匂い。
     重なり合う木々が放つ青々とした葉の芳香。
     そして、それらを包み込むようにほんのりと漂う、温泉特有の濃い硫黄の香り。
     目の前に聳え立つのは、重厚な木造三階建ての建築だ。
     長年の風雪に耐え、幾度も補修を重ねながら大切に使われてきた古い建物。その年月の重みを示すように、黒光りする太い柱や歪みのある手吹きガラスの窓が独特の情緒を醸し出している。
     玄関横に飾られた年季の入った一枚板の看板には、達筆な毛筆の文字でこう刻まれていた。

    『山灯館』

    「帰ってきたんだなぁ……」
     高校進学と同時に、小春は山を下りて寮に入った。
     なにしろ、この実家から高校へ通おうとすれば、始発のバスに乗っても間に合わないほど時間がかかるのだ。
     大学も遠方の都内だったため、そのまま一人暮らしを継続。
     長期休暇のたびに何度か顔は出していたものの、羽を伸ばしてゆっくり実家で過ごすのは本当に久しぶりだった。
     そして今年、小春は大学を無事に卒業した。
     しかし、周りのようにすぐ企業へ就職することについては、自分のやりたいことが見つからず、もう少しじっくり考えたいと思っていた。

     そう両親へ電話で相談したところ――
    『じゃあ、進路が決まるまでしばらく旅館の手伝いをしなさい。メシと風呂はタダなんだから』

     ということになり、こうして数年ぶりに戻ってきたのである。
    「小春ぅーっ!」
     ガラガラと引き戸が開き、玄関から割烹着姿の母が飛ぶように飛び出してきた。
    「お母さん!」
    「おかえり! まあまあまあ、ちょっと見ない間にすっかり大人っぽくなって! 都会の垢が抜けたんじゃないの?」
    「この前のお正月にも帰ってきたじゃん。半年しか経ってないよ」
    「親にとっての半年は長いの! 二十代の成長は早いのよ!」
    「はいはい」

     そんな他愛もない軽口のやり取りすら、愛おしく懐かしい。
     小春の頬が自然と緩んだ。
     そう、ここが自分の生まれ育った家だ。

     幼い頃の小春にとって、この無駄に広い木造旅館そのものが巨大な遊び場だった。
     長長い廊下を雑巾がけレースの真似をして走っては「お客様のご迷惑でしょう!」と仲居さんに叱られ。
     大広間の畳の匂いの中で忍び込み、板前さんから余った甘味をもらい。
    常連客の部屋へ勝手に入り込んでお喋りに興じては、冷や汗をかいた両親に首根っこを掴まれて連れ戻された。

    「あー、やっぱり落ち着く場所だなあ……」
     大きなボストンバッグを担ぎ直し、カツンと敷石を鳴らして玄関へ足を踏み入れる。
    「ただいまーっ!」
     小春の元気な声が、磨き上げられた高い天井の館内へと気持ちよく響き渡った。

     すると。
    「あら?」
     格子戸越しに見える帳場の奥から、ひょこっと丸い顔が覗いた。
    「あらあらあら! 小春ちゃんかい!?」
    「あっ!」
     視線が合い、小春はパッと表情を輝かせた。
    「田淵さん!」
    「いやぁ、しばらく見ないうちに綺麗で大きくなったねえ!」

     田淵さん。
     小春が物心ついた頃から、まるでカレンダーに組み込まれているかのように月に一度の頻度で泊まりに来ている超常連客だ。
    本当の年齢は誰も教えてくれず、よく知らない。
     見た目は白髪混じりの柔らかい髪をした、六十歳くらいの小柄なおじさんだ。
     昔からいつもニコニコしているお人好しな笑顔が特徴で、館内で幼い小春を見つけるたびに、ポケットから色とりどりの飴玉や箱入りの温泉饅頭を差し出してくれたものだ。

    「お久しぶりです! お元気でしたか?」
    「本当に久しぶりだねえ。覚えてるかい? 小さい頃なんて、廊下で私を見つけるたびに『あ! お菓子のおじちゃんだ!』って飛びついてきてねえ」
    「や、やめてくださいよ、もう大人なんですから!」
    「ははは! こりゃ失礼!」

     ああ、これだ。この雰囲気だ。
     大手ホテルとは違い、山灯館のような古い温泉旅館では宿泊客との距離が驚くほど近い。
     特に田淵さんのような常連客ともなれば、もはや遠い親戚のおじさんと変わらない感覚なのだ。

    「そうだそうだ。久しぶりの再会記念に、これよかったらどうぞ」
     田淵さんが慣れた手つきで胸ポケットを探り、コロンと可愛らしい苺味の飴玉を取り出した。
    「えっ」
    「どうぞどうぞ」
    「田淵さん、私、もう二十二歳ですよ?」
    「私にとっちゃ、小春ちゃんは幾つになっても可愛らしい子供だよ」
    「もう、相変わらず甘やかしなんだから!」

     文句を言いながらも、小春は笑って飴玉を受け取った。ひんやりとしたガラス玉のような手触り。
     本当に、何も変わっていない。
     田淵さんは昔からずっと、変わらない温かさでここに居てくれる。

     昔から――。

     ふと、小春の視線が田淵さんの足元へ落ちた。

    「…………ん?」

     なんだろう。

    言葉にできない猛烈な違和感。

     田淵さんは、ごく普通のチェック柄のシャツにスラックスという地味な装いだ。足元も、旅館の畳スリッパを履いている。

     なのだが。

    そのスリッパから伸びる足首のあたりが。

    「…………」
     小春は思わず両目をゴシゴシと力任せにこすった。
    そして、もう一度まじまじと見つめる。

     やっぱり。
    「……田淵さん」
    「ん? なんだい?」
    「あの……足元、すごく薄くないですか?」
    「足?」
     田淵さんは「どれどれ」と呑気に自分の足元へ視線を落とした。

     小春も一緒に、息をのんで観察する。
     膝。
     脛。
     足首。
    下へ行けば行くほど、急激に濃淡が怪しくなり――
     透けている。
    田淵さんの足の向こう側にある、山灯館自慢の欅の床板の木目が、クッキリと向こう側まで見えているのだ。まるで薄い半透明のセロハン越しに世界を見ているかのように。

    「…………」
    「…………」
    「……透けてますよね?」
    「ああ」
     田淵さんは、今日の天気でも確認するかのように、なんでもない顔で頷いた。
    「今日は湿気が多いからねえ」
    「しっけ?」
    「そうそう。こういうじめじめした日は、どうにも全体的に薄くなっちゃうんだよ」
    「へ、へえ……」
    「歳を取ると、霊体の維持も調子が悪くてねえ」
    「そうなんですね……って、れいた……?」
    「じゃあ小春ちゃん、またあとでゆっくりね。長旅でお疲れでしょう」
    「あ、はい……お気をつけて……?」
     田淵さんがフワフワとした足取りで廊下の奥へと歩いていく。

     小春はその背中に向かって、顔に張り付いた笑顔のまま引きつった手を開閉させた。
    「…………」
     田淵さんが曲がり角を曲がり、姿が見えなくなる。
    「…………」
     小春は、もう一度強く目をこすった。痛いくらいに。
    「……長旅で、目が疲れてるのかな?」
     バスにも酔ったし、排気ガスのせいかもしれない。
     うん、きっとそうだ。人間、疲れが溜まると幻覚の一つや二つ見ることだってある。
     小春は深く追及するのを脳内で強制終了させた。
     なにしろ久しぶりの我が家だ。
     今日は自分の部屋に荷物を運んで片付けをして、一番風呂にでも浸かって旅の垢を落とそう。

     そう決意し、ボストンバッグを持ち上げようとしたその時――
    「おや」
     廊下の奥から、重厚で低い声が響いた。
    「小春じゃないか。戻っていたのか」
    「あ!」
     今度こそ、脳内の疑問を吹き飛ばすほどの懐かしさが勝った。
    「文太さん!」
     うぐいす張りの廊下を鳴らしながら歩いてくるのは、渋い藍色の浴衣を羽織った一人の老人だった。
     見事な白髪を後ろに撫で付け、鼻頭には丸眼鏡。
    眉間にシワを寄せた、いつも少し不機嫌そうな厳格な顔つき。
    そして左手には、使い込まれた原稿用紙の束と万年筆が握られている。
     山灯館の名物客であり、何年間も一〇二号室に長期滞在している――文太(ぶんた)さんだ。
     職業は自称・文豪。本人は「稀代の小説家」を名乗っているが、小春は一度も彼の本が書店に並んでいるのを見たことがない。
    「無事に大学とやらは終わったのかね」
    「はい! 先週卒業式でした!」
    「ほう」
     文太さんは丸眼鏡のフチを指先で少し持ち上げ、上から下へと小春を値踏みするように眺めた。
    「ふむ、すっかり大きくなったものだ。娘の成長は早いな」
    「文太さんは全然変わってませんね。相変わらず渋いです」
    「失礼な。これでも日々、しっかりと歳は取っておる」
    「いやいや、私が幼稚園の頃から全く同じ見た目じゃないですか」
    「ふん。本物の作家という生き物はな、安易に老けたりはせんのだよ」
    「そんなわけないでしょう」
    「原稿執筆に魂を燃やすたび、命が循環して若返るのだ」
    「じゃあ締め切り直前だけ不老不死ですね」
    「はっはっは! うまいことを言う!」

     懐かしい。
     文太さんとの会話は、昔からずっとこのテンポだ。
     幼い頃、小春は文太さんの部屋を自分の部屋のように根城にしていた。
     彼がカリカリと原稿用紙に万年筆を走らせている横で、お絵描き帳に落書きをしたり。
     畳の上でゴロゴロと昼寝をしたり。
    締め切りから逃げるために押し入れに隠れた文太さんを、母親と一緒に宝探し感覚で捜索したりしたものだ。

    「ああ、そうだ」
     文太さんが手にしていた原稿用紙をポンと丸めた。
    「ちょうどいいところに来た。あとで部屋へ渋いお茶を一杯持ってきておくれ」
    「もう、自分で帳場まで取りに来てくださいよ」
    「ばかもん。儂は今まさに、創作の神が頭上に降臨しておるのだ」
    「昔から締め切りが危なくなるとそれ言ってますよね」
    「失礼な、今日は本物だ」
    「昨日は?」
    「昨日も本物だった」
    「毎日降りてきてるじゃないですか。神様も大忙しですね」
    「儂ほどの人気者になればな」

     文太さんが「ふふん」と誇らしげに胸を張り、扇子のように原稿用紙を揺らした。

     その時だった。
     文太さんの着ている浴衣の裾から。
     ふさっ。

    「…………」
     何かが出た。
     茶色い。
     驚くほどふさふさしている。
    大人の腕ほどもある太さ。
    そして、それが感情を表すように――左右へゆったりと揺れている。

    「…………」
     小春の思考がフリーズした。

    「どうした? 鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして」
    「……文太さん」
    「なんだ」
    「後ろ」
    「後ろ?」
    「なんか……出てます」
    「ん?」
     文太さんが首を傾げ、後ろを振り返ろうとする。だが当然、自分の真後ろのお尻は見えない。

     小春はわななく指先で、文太さんの腰のあたりを指した。
    「しっ、尻尾……」
    「…………」
    「尻尾、生えてます。めっちゃ太いのが」

    「…………ああ」
     文太さんは至極平然とした顔で、後ろの手を伸ばすと、自分の尻尾を「よっこらしょ」と掴んだ。
    「いかんいかん、仕舞い忘れておったわ」
     そして。
    浴衣の裾をめくり上げると。
    その太くてふさふさした尻尾を、帯の下へ。
     ぎゅっ。
    と、押し込んだ。

    「…………」
    「…………」
    「では小春ちゃん、熱い茶を頼むぞ」
     すたすたすた。
     何事もなかったかのように、文太さんが廊下の奥へ歩み去っていく。

    「…………」
     小春は、一歩も動けなかった。
    時間が止まったかのような静寂。

     十秒。
    二十秒。
    三十秒。

    そして――思考の限界を迎えた小春の脳内で、何かが弾けた。

    「いやいやいやいやいやいやおかしいでしょ!!」
     小春は荷物を放り投げ、全力で帳場へダッシュした。
    「お母さん!! お母さんっ!!」
    「廊下を走らないの! お客様の迷惑でしょう!」
    「今それどころじゃないってば!!」
     帳簿に目を通していた母が、鬱陶しそうに顔を上げた。
    「なによ騒々しいわね。せっかくの風情が台無しじゃない」
    「文太さん! 文太さん!!」
    「文太さんがどうしたのよ? また締め切りから逃げて物置に隠れた?」
    「尻尾!!」
    「尻尾?」
    「お尻から! 茶色いふさふさの尻尾が生えてた!!」
    「…………」
     母は呆れたように首を傾げた。
    「生えてるわよ?」
    「知ってるの!?」
    「そりゃ知ってるわよ。何を今更」
    「なんで!? なんで驚かないの!?」
    「なんでって……昔から生えてるんだから仕方ないじゃない」
    「人間には生えないよ!! 尻尾なんて!!」

    「だって文太さん、人間じゃないもの」
     さらり。
    あまりにも爽やかに、今日の晩御飯のメニューでも告げるかのようなトーンで言われた。
    小春の口が「あ」の形にしたまま固まる。
    「…………え?」
    「化け狸よ」
    「…………」
    「あら、知らなかったの?」
    「知らないよ!! 初耳だよ!!」
     小春の叫び声に引き寄せられるように、奥の厨房から固く絞った手拭いを首にかけた父が顔を出した。
    「おいおい、廊下まで丸聞こえだぞ。お客様がいるんだから静かにしろ」
    「お父さん! たすけて!」
    「なんだ、どうした」
    「文太さん、化け狸なんだって! お母さんが変な嘘つくの!」
    「知ってるぞ。今更なんだ」
    「知ってるの!?」
    「ついでに田淵さんの足も透けてたでしょ!?」
    「ああ、今日は雨が近いからな。あの人は湿度に弱いんだ」
    「なんで天気予報の湿度メーターみたいに納得してるの!?」
    「田淵さんは昔からそうだろう。雨の前日は足元がスケスケになるんだ」
    「そうなの!?」

     父と母が「やれやれ」といった様子で顔を見合わせた。
    そして二人揃って、心底不思議そうな目つきで小春を見つめてくる。
    「お前……」
    「な、なに……?」
    「お前、本当に今まで知らなかったのか?」
    「知らなかったよ!! どこに気づく要素があったの!?」
     むしろ、どうして自分が知っている前提で話が進んでいたのか。小春の頭はどうにかなりそうだった。
     母が顎に手を当て、昔を懐かしむように記憶を掘り返す。
    「でも小春、小さい頃は文太さんの尻尾に抱きついてお昼寝してたじゃない」
    「え」
    「『ふかふかのクッションー!』って大喜びで頬ずりしてたわよ」

    「…………」
     ドサッと、古い記憶の扉が開いた。
    確かに。あった。
    幼い頃、文太さんの部屋の畳の上には、毛足が長くて温かい、極上の大きな毛皮のクッションがあった。
    小春は大のお気に入りだったのだ。

     …………あれ。
    「あれ……尻尾だったの……?」
    「そうよ。文太さん、お前が寝やすいようにわざわざ太く化けてくれてたのよ」
    「完全に高級クッションだと思ってた……!」

    「あと、田淵さんとよく館内でかくれんぼしてたじゃない」
    「してた! 田淵さん、いつも隠れるの上手でさ!」
    「田淵さん、毎回壁の中にすーっと入って隠れるから、お前毎回見つけられなくて『いないよー!』って泣いてたわね」
    「…………」
    鮮明に蘇る幼少期のトラウマ。
    どれだけ押入れを探しても、押入れの「壁の中」に隠れられては見つかるはずがない。
    幼い小春は「大人はかくれんぼの天才なんだ」と本気で尊敬していたのだ。

    「壁の中!?」
    「だって幽霊だからね。壁抜けくらい朝飯前よ」
    「田淵さん幽霊なの!?」
    「そうよ?」
    「月に一度、律儀に予約入れて泊まりに来る幽霊って何!? 成仏しなさいよ!」
    「山灯館の温泉がお気に入りなのよ。肩まで浸かると体の透け具合が戻るんだって」
    「幽霊って温泉で体調整えるの!?」
    「田淵さんは整うらしいわよ」
    「知らないよそんな怪異の生態!!」

     小春は両手で頭を抱え込んだ。髪がぐしゃぐしゃになる。

     おかしい。世界が狂っている。

     いや。

     落ち着いて昔の出来事を思い返せば――思い当たるフシが、山ほどありすぎた。
    真夏なのに、周囲だけクーラーが効いているみたいにヒヤッと涼しかった、儚げな綺麗なお姉さん(たぶん雪女)。
    頭に青々とした葉っぱを乗せたまま、酒を飲んでいたおじさん(たぶん狐)。
    長風呂から上がってくると、首から下にびっしりと魚のような鱗が浮き出ていたお爺さん(たぶん河童か人魚)。
    大広間で一人で料理を十人前ペロリと平らげていた、小柄なお婆ちゃん(たぶん二口女)。
    夜中になると、楽しそうに廊下をタタタッと走り回っていた、自分と同い年くらいの着物姿の女の子(たぶん座敷わらし)。

    そして――毎年会っていたはずなのに。
    小春が成長して大人になっても、彼らの姿は『あの日』から一歳たりとも年を取っていなかった。

    「…………」
     小春の顔から、サーッと血の気が引いていく。
    「お、お母さん……」
    「なに?」
    「もしかして……だけど」
    喉の渇きを感じながら、恐る恐る問いただした。
    「うちって……普通の温泉旅館じゃないの……?」

     両親がピタリと動きを止めた。
    父が母を見る。
    母が父を見る。

    しばしの沈黙の後、母が困ったように微笑んだ。
    「何を言ってるの。れっきとした普通の温泉旅館よ?」
    「どこが!? どこをどう見たら普通なの!?」
    「失礼ねぇ。ちゃんと保健所と警察から旅館業の営業許可だって取ってるわよ。税金も払ってるわ」
    「そういう行政手続き上の普通を聞いてるんじゃない!」
    「温泉だって、湧き潰しなしの純度100%源泉掛け流しだぞ。誇りを持っている」
    「温泉の泉質の話でもない!」
     父が太い腕を組む。
    「それにだな、人間のお客様も普通に泊まりに来てるぞ」
    「『も』って言った!」
    「ん?」
    「今『人間のお客様も』って言ったよね!? 主語が逆でしょ!?」
     母がうふふと楽しそうに笑った。
    「そりゃあねぇ。代金を払ってルールを守ってくださるなら、人間も、妖怪も、幽霊も、神様も、みんな大切なお客様でしょう?」
    「神様!?」
    新種の危険ワードがサラッと追加された。
    「ちょっと待って! 神様も来るの!? ここに!?」
    「ええ、たまにね」
    「たまに!?」
    「去年は山の神様が『最近の人間は山を荒らして困る』って愚痴りながら三泊していかれたな」
    「なんで神様が温泉旅館でストレス発散してるの!?」
    「湯治よ、湯治。神様だって肩が凝るらしいわよ」
    「神様に肩こりがあるんだ……現代社会厳しいな……」

     もはや何が普通で、何が異常なのか、小春の倫理観と常識がガラガラと崩れ去っていく。
     母がポン、と景気の良い音を立てて手を叩いた。
    「まあ、でもちょうどよかったわ」
    「何が……?」
    「今日からここで、本格的に旅館の手伝いをしてくれるんでしょう?」
    「そう……そのつもりで帰ってきたけど……」
    「なら、早いうちに覚えてもらわないとね」
    「何を?」

     母は満面の笑みを浮かべた。
    「人じゃないお客様への、正しい接客マニュアルを」

    「…………」
     猛烈な嫌な予感。
    背筋を冷たい汗が伝う。

     母は帳場のお伺い書から一枚のメモ用紙をサッと取り出した。
    「じゃあ早速だけど、三〇二号室のお布団、敷いてきてちょうだい」
    「えっ」
    「長旅で疲れてるところ申し訳ないけど、ちょうど今、人手が足りないのよ」
    「あ、うん……布団敷きくらいなら……」
     普通だ。
    それなら普通のお手伝いだ。
    実家が温泉旅館なのだから、小学生の頃から何度も手伝った経験がある。

     小春はホッと胸を撫でおろし、母からメモ用紙を受け取った。
    「三〇二号室のお客様は、どんな方?」
    「お侍さん」
    「へえ、歴史好きのお客さんかな」

    「首がないけど」

    「…………」
     小春の動きがピタリと止まった。

    「……今、なんて?」

    「首のない、お侍さん」
    「…………」
    「二泊三日で素泊まりよ」
    「宿泊プランの詳細は聞いてない!」

    「あとね、お首は床の間の飾棚の上に置いてあるから、お布団敷くときにうっかり蹴飛ばさないように気を配ってね」
    「首が置いてあるの!?」
    「去年入った仲居さんがね、暗がりでうっかり蹴っちゃって大変だったのよ」
    「何が!? お侍さんが怒ったの!?」
    「いいえ、首がコロンコロンって押し入れの一番奥まで転がっちゃって、拾うのに掃除機まで引っ張り出して大変だったの」
    「そっちの苦労の方向性!?」

     母が小春の背中をポンポンと強引に押す。
    「はいはい、行った行った! お客様をお待たせしちゃダメでしょ」
    「待って! 心の準備が! メンタルのフィルターがまだ!」
    「はい、お布団持って!」
    「お母さぁぁぁん!」

     抵抗も虚しく、小春は押し出されるようにして廊下へ放り出された。
     両腕にずっしりと重い客用のお布団を抱えたまま、小春は一人、立ち尽くす。
     しんと静まり返った館内。
     長年の年月を吸い込んだ古い太い柱。
    ピカピカに磨かれた鶯張りの廊下。
    鹿おどしがカトンと響く、美しい日本庭園。
     何も変わっていない。
    自分が生まれ育った、あたたかくて大好きな、懐かしい実家。

     なのに。
     廊下の向こうの陽だまりでは、足元が透けた田淵さんが呑気に縁側で新聞を読んでいる。

     庭の東屋では、文太さんが尻尾をフリフリさせながら万年筆を走らせている。

    そして、これから自分が向かわなければならない三〇二号室には――首のない武士が、布団が敷かれるのを待っているのだ。
    「…………」
     小春は脱力し、抱えた布団に顔を埋めながら天井を仰いだ。
     大学を卒業して。
    七年ぶりに、本格的に実家へ住み込みで帰ってきて。
    二十二歳になって、初めて知った事実。
    「……うちって、全然普通じゃなかったんだ」

     その時。
    「小春ちゃーん」
     縁側から、田淵さんがひらひらと手を振った。
    「お仕事終わったら、あとで久々に卓球しようねー」
     相変わらず、膝から下は完全に透けて向こうの庭石が見えている。

    「…………はい、喜んで」
     死んだような声で返事をしてから、小春はがっくりと頭を抱え込んだ。
    「なんで私……今まで一回も気づかなかったんだろ……」

     人里離れた深山にぽつりと佇む温泉旅館、山灯館。

    人間。
    妖怪。
    幽霊。
    そして、たまに肩こりに悩む神様。

    宿泊代(あるいはそれに見合う品)を払ってくれるのなら、どんな存在であろうと分け隔てなくもてなす、大切なお客さま。

     とんでもない実家での、目まぐるしくも愛おしい(?)新しい日常が――

     今日から、再び幕を開けるのだった。



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    幼い頃の約束


     山奥の実家へ帰ってきてから、早くも半年が経った。

    「小春ちゃーん」
    「はーい!」
    「三〇一号室なんだけどねえ、お茶のおかわり、お願いできるかい?」
    「今すぐ急いでお持ちしまーす!」

     山奥のポツンと立つ温泉旅館――山灯館。
     今朝もまた、朝からてんてこ舞いの忙しさだ。
     実家へ戻ってきたばかりの数ヶ月間、小春はまさに毎日が驚きの連続で、心臓がいくつあっても足りないほどだった。

     長期滞在中の気障な文豪・文太さんには、立派でふさふさした化け狸の尻尾が生えている。

     月に一度は必ず泊まりに来るお人好しの田淵さんは幽霊で、雨や湿気の多い日には足元どころか存在自体が透けて薄くなる。

    さらには、首を床の間に置いてくつろぐ落武者。
    ため息をつくたびに廊下を凍りつかせる雪女。
    風呂上がりにキュウリをポリポリ齧る河童。
    夜な夜な大広間でどんちゃん騒ぎをする化け猫の一座。
    果ては、肩こりを癒やしに湯治へやってくる山の神様まで。

     二十二年間、己の実家を「風情のあるごく普通の温泉旅館」だと信じて疑わなかった小春にとって、最初の一ヶ月は自分の常識が音を立てて崩壊していく衝撃の日々だった。

     しかし――。
     良くも悪くも、人間という生き物は「慣れる」のだ。
     ましてや相手のほとんどが、幼い頃から自分の成長を見守ってくれていた馴染みの顔なのである。

    「小春ちゃん」
    「はい、田淵さん?」
     急ぎ足で廊下を歩いていると、ひょっこり客室から顔を出した田淵さんに呼び止められた。
    「あのねえ、私の右足、どこかで見かけなかったかい?」
    「…………またですか?」
    「いやあ、朝起きたら膝から下がごっそり無くなっていてねえ」
    「昨日、長風呂して大浴場に入りましたよね?」
    「うん、入った入った」
    「じゃあ脱衣所の籠の中か、洗い場ですよ。先月も全く同じことやってたじゃないですか」
    「ああ! そうだった、脱衣所に忘れてきたか!」
    「ちゃんと右足くっつけてから部屋に戻ってくださいよ! 他の人間のお客様が見たら腰抜かしますからね!」
    「いやあごめんごめん、歳を取るとどうにも忘れっぽくてねえ」
    「幽霊って歳取るんですか?」
    「んー、まあ気持ちの問題だねえ」
    「便利ですね、その万能な言葉」

     もう、この程度の「怪奇現象」では小春の心はピクリとも動かない。
    田淵さんに苦笑いを向けつつお盆を抱え直すと、角を曲がったところで今度はドサッと音がした。
    「小春ぅ!」
     文太さんだ。不機嫌そうな顔で腕を組んでいる。
    「はいはい、文太さん。今度は何ですか? 原稿の締め切りならあと二日ですよ」
    「違う! 儂の入魂の原稿を用紙ごと知らんか! 神が降りてきて書いた名文なのだ!」
    「昨日、天気がいいからって縁側で書いてたでしょう?」
    「そうなのだがないのだ! 風で飛んだ気配もない!」
    「文太さん、尻尾の下は?」
    「む?」
     文太さんが眉間ジワを深めながら、お尻から生えた太くて巨大なふさふさの尻尾を「よっこらしょ」と持ち上げる。
     そこには、綺麗に押し潰された原稿用紙が三枚。
    「……あった」
    「思いっきり自分で踏んで潰してたんじゃないですか!」
    「たわけ! 尻尾は体の一部だ、踏んではおらん、乗せておいただけだ!」
    「屁理屈言わない! 原稿がシワシワですよ!」

     半年前の自分なら、太い尻尾が意思を持って動いただけで「ひゃい!?」と悲鳴を上げて飛び上がっていたはずだ。
    だが今では、邪魔な尻尾を「ちょっとどけてくださいねー」と手で払って廊下を掃除するまでに成長した。

     結局のところ。
     人間であっても。
     妖怪であっても。
     幽霊であっても。
     昔から可愛がってくれた人は、今でも変わらず親切で愛すべき人々なのだ。

    ただ、小春がその「正体」を知らなかったという、それだけの話。
    「小春ーー! 三〇二号室のお侍さんが首を探してるわよー!」
    「今度はそっち!? お母さん、床の間の陰を見てって言ってー!」

     そして何より――実家の旅館の仕事は、とにかく忙しい。
     お客様が人間か妖怪かなんていちいち気にしている暇など、接客の現場には一秒たりとも存在しないのだった。


     その日の夜。
    「あー……疲れたぁ……っ!」
     すべての業務を終えた小春は、自分の部屋の万年床へ文字通りダイブした。
    体を包み込む布団の柔らかさが心地いい。
     明日も朝から容赦なく忙しいのだ。
    午前中に人間とあやかし混ざって二組がチェックアウト。
    午後には三組の新しいお客様がやってくる。
    文太さんからは、
    『明日は創作の神と本格的に対話する故、食事は部屋まで運んでくれ。ノックは二回だ』
    と気障に言い渡されている。
    「絶対、締め切りがヤバくて部屋から出られないだけでしょ……」
    小春は呆れつつ、深く枕に顔を埋めた。
    じんわりと体が温かくなり、心地よい疲労感が意識を溶かしていく。
    そのまま、小春は深い眠りの底へと落ちていった。
         
     ――暗い。
     目の前に広がるのは、見上げるほど巨大で鬱蒼とした樹木。
    見上げても、重なり合った枝と濃い緑の葉に覆われて、空などほとんど見えない。
    『おかあさーん……おとうさーん……っ』
     幼く、掠れた声。
    鼻をすする音。泣いている。
    それは、小さな自分だった。
    まだ五歳かそこらの、幼い小春。
    着物の裾は泥と草の汁でドロドロに汚れ、転んだのか小さな膝からは血が滲んでいた。
    どちらから歩いてきたのか。
    どちらへ歩けば大好きな家に帰れるのか。
    幼い頭では、もう何も分からなかった。
    『おかあさん……どこ……?』
    山道ですらない深い森。返事は届かない。風が木の葉を揺らす音だけがカサカサと鳴る。
    怖い。
    おうちに帰りたい。
    それでも小さな足で、必死に歩いた。
    張り出した木の根につまずいて派手に転び、痛みに耐えながら、枝をかき分けて。

    そして――。
    『おい』
    『……?』
    頭上から、少し低く固い声が降ってきた。
    小春は涙で濡れた顔を上げた。
    大きな木の一番太い枝の上に、ひとりの少年が腰掛けていた。
    小春より、少し年上に見える。
    夜のように深い黒髪。
    健康的に日焼けした浅黒い肌。
    黄金色に光る、鋭い眼光。
    そして――その背中には、夜の闇を切り取ったかのような、大きくてしなやかな黒い翼が生えていた。

    『お前』
    少年は眉間に苦々しいシワを寄せ、不機嫌そのものの顔で小春を見下ろしていた。
    『人間の子供が、なんでこんな奥まで入ってきている』
    『…………』
    『ここがどこだか分かっているのか?』
    『……う』
    『?』
    『うわあああああああんっ!!』
    『なっ!?』
    あまりの怖さに、小春は大声で泣き出した。
    『お、おい! 泣くな! 黙れったら!』
    『おかあさぁぁぁん! こわいよぉ!』

    『分かった! 分かったから静かにしろ!』
    少年は慌てふためき、黒い翼をバサリと羽ばたかせて木の上からしなやかに飛び降りてきた。

    どうやら彼は、大声で泣く子供の扱いが壊滅的に苦手らしい。
    『……迷ったのか?』
    『……う、うん……っ』
    『どこから来た』
    『お、おうち……』
    『それじゃ分からないだろ』
    『おんせん……の、ある……』
    『温泉?』
    『さんとうかん……』

    少年は怪訝そうに首を傾げた。
    『聞いたことがないな。そんな場所』
    『うわああああん! おうち帰れないー!』
    『だから泣くなと言っているだろう!』

    それから、しばらくして。
    小春はようやくしゃくりあげるのをやめた。
    少年が溜息をつきながら、ポケットから真っ赤な木の実を取り出して差し出してくれたからだ。

    『……食べるか』
    『……たべていいの?』
    『腹が減っているんだろう。泣く体力が残っているなら食え』
    『うん……』
    ふたり並んで、コケの生えた大きな岩に腰掛けた。
    小さな木の実を口に含む。甘酸っぱい果汁が広がった。
    『すっぱい!』
    『そうか? 山の実なんてこんなもんだろ』
    『でも……おいしい』
    『変な奴だな』
    『おにいちゃんも食べてるじゃん』
    『俺はいつも食べてるし、お前にやったんだ』
    『じゃあ、わたしも食べていいやつだ』
    『なんだそりゃ』
    少年は呆れたように肩をすくめた。

    けれど、その唇の端が、ほんの少しだけ柔らかく緩んだのを小春は見逃さなかった。
    それからふたりは、いろんな話をした。
    山のこと。
    温泉旅館のこと。
    好きな食べ物のこと。
    少年は、この広大な山の「外の世界」のことを何も知らなかった。
    小春は、少年が暮らす「山の奥深さ」を何も知らなかった。

    夢中で話しているうちに。
    遭難して死ぬほど怖かったことも、いつの間にか忘れていた。
    『ここはな、俺たちの縄張りなんだ』
    『なわばり?』
    『そうだ。普通の人間はめったに入ってこられない』
    『じゃあ、わたしすごい?』
    『ただのドジで迷い込んだだけだろ』
    『ううん、すごい!』
    『……ふん。そういうことにしておいてやる』

    やがて、少年がふいに立ち上がった。
    『ここでじっとしていろ』
    『どこいくの……?』
    『お前の言っていた“さんとうかん”とかいう場所を探してきてやる』
    『ひとりはいやだ!』
    『すぐ戻る。俺を誰だと思っている』
    少年はポンと自分の胸を叩いた。
    『ここは俺の縄張りだ。何がどこにあるか、全部知っている』
    『すごい!』
    『だから、ここで待ってろ。動くなよ』
    『うん!』

    少年が背中の大きな黒い翼をバサッと広げる。
    けれど、飛び立つ直前。
    『ねえ!』
    小春が叫んだ。
    『なんだ』
    『また、遊ぼうね!』
    『…………』
    『ね?』
    『……お前は人間だろ』
    『うん!』
    『人間はこんな山の奥まで来られない』
    『じゃあ、わたしが大きくなったら、絶対にまた来る!』
    『……本当か?』
    『うん! 絶対!』
    『人間は口が上手い。すぐ約束を忘れる』
    『忘れないもん! 絶対忘れない!』
    小春は小さな手を伸ばし、キュッと小指を立てた。
    『ゆびきりげんまん! 約束!』

    少年は酷く迷うように小春の指を見つめていたが――やがて、己の少し大きな小指をそっと絡ませてきた。
    『……約束だぞ。破ったら承知しないからな』
    『うん!』
    小春は弾けるような満面の笑顔で言った。
    『大きくなったら、わたしがここまで迎えにいくね!』
        


    「…………ん……ふ」
    小春はハッと目を覚ました。
    視界に入ってきたのは、見慣れた自分の部屋の木目の天井。
    窓の外からは、鳥のさえずりと朝の光が差し込んでいる。
    「…………」
    ぼんやりとした頭で、ゆっくりと体を起こした。
    「いまの……夢……?」
    いや。
    単なる脳が作った夢とは、とても思えなかった。
    あまりにも鮮明すぎる。
    あの時食べた、甘酸っぱい木の実の味まで舌に残っているような気さえした。

    黒い翼。
    生意気で、不機嫌そうな少年。
    絡ませた小指の温もり。
    『大きくなったら、わたしが迎えにいくね!』

    「…………誰だったっけ」
    小春は眉間にシワを寄せ、記憶の糸を必死に手繰り寄せようとした。

    とても大切な約束だった。
    破ってはいけない、愛おしい約束。
    そんな確信だけが胸に強く残っている。

    だが。
    肝心の相手の顔と名前が、どうしても霧がかかったように思い出せなかった。
        


    「そういえばねぇ」
    朝食の時間。
    母が豆腐とナメコのお味噌汁をズズッとすすりながら、思い出したように言った。

    「小春、昔、山で遭難して大騒ぎになったことあったわねぇ」

    「ぶふっ!?」
    小春は口に含んでいたお茶を吹き出しかけた。

    「汚いぞ、小春。飯の最中に」
    父が新聞を広げたまま、低音で咎める。
    「急に何思い出してるのよ、お母さん!」
    「いやね、昨日物置の押し入れを整理してたら、昔のアルバムが出てきてね。警察の人と一緒に写ってる小春の写真があったのよ」
    「私、あのとき何歳くらいだったの……?」
    「たしか五歳くらいだったかしら」

    「…………」
    夢の中の、自分の姿と完璧に一致する。
    「夕方になっても帰ってこなくてねぇ。お父さんと二人で青ざめて、山狩りレベルの大捜索だったのよ」
    「警察も呼んだの?」
    「もちろん。地元消防団も総出だし、うちに泊まってた常連さんたちまで総出で探してくれたわ」
    父がパタンと新聞を畳み、遠い目をした。
    「文太さんなんか、大きなポンポコ狸の姿に戻って山中を鼻を鳴らして走り回っていたぞ」
    「……その絵面、ちょっと見てみたいかも」
    「田淵さんなんて、壁抜けの能力を使って険しい崖の中まで透けて探していたからな」
    「幽霊の物理無視、捜索活動においてはめちゃくちゃ便利ですね……」

    「でもね、見つからなかったのよ」

    母の声から、いつもの軽快さが消え、少しだけトーンが落ちた。
    「え……?」
    「警察の警察犬まで投入して山中をいくら探しても、あなたの靴片一重すら見つからなかったの」
    「じゃあ……私、どうやって帰ってきたの?」
    「それがねぇ、今でも山灯館の最大の謎なのよ」
    母は心底不思議そうに首をかしげた。
    「夜通し探して、みんなが疲労困憊で明け方に旅館へ戻ってきたらね――」
    母が小春の顔をじっと見つめる。

    「あなたが、玄関横の縁側でぐっすり寝てたの」

    「…………」
    「毛布を着せられて、膝のすり傷には薬まで塗られてね。ぐっすり気持ちよさそうに」
    「誰かが……送ってきてくれたんじゃないの?」
    「誰も何も見てないのよ。捜索隊の誰も、連れてくる人影なんて見なかった」

    小春は絶句した。
    昨夜見た、あの夢。
    『ここで待ってろ』
    『お前の山灯館っていう場所を探してくる』

    あの後。
    あの少年が去った後、一体何が起きたのだろう。
    自分はどうやって、あの深い深い山の奥から、山灯館の縁側まで戻ってきたのか――。
    「…………」
    思い出そうとすればするほど、頭の奥が痛むだけで、記憶の霧は晴れてくれなかった。


    その日の午後。
    「ありがとうございました! お気をつけてお帰りください!」
    人間のファミリー客を乗せた乗用車が、舗装の怪しい山道を下り、木々の向こうへ消えていく。
    小春は玄関先で「うーん!」と大きく両手を伸ばして深呼吸をした。

    「さてと、次は三〇二号室の清掃と――」

    バサッ。
    「ん?」
    風が吹いた。
    バサバサバサッ!
    今度は、木の葉を大きく巻き散らすほどの突風だ。
    周囲の杉の木々が、まるで生き物のようにザワザワと激しく鳴り響く。

    小春は何事かと空を見上げた。
    上空を、旋回する大きな黒い影。

    「鳥……? いや、大きすぎる……!」
    影が一気に旋回半径を縮め、垂直に高度を下げてくる。

    「えっ、ちょっと待っ――」
    バサァッ!!
    「うわっ!?」
    猛烈な風圧に、小春は思わず腕で顔を覆った。

    土煙と木の葉が舞い散り、やがてぴたりと風が収まる。
    小春が恐る恐る腕を下げ、ゆっくりと顔を上げると――。

    石畳の玄関前に、一人の青年がすっと立っていた。
    漆黒の髪。
    健康的に引き締まった浅黒い肌。
    射ぬくような黄金色の鋭い瞳。
    そしてその背中には、圧倒的な存在感を放つ、巨大な黒い翼。

    「…………」
    「…………」
    青年が、不躾な視線で小春を上から下へと見つめる。

    やがて、その綺麗な眉間に、ぎゅっと深いシワが寄った。
    「……い、いらっしゃいませ……?」

    さらにシワが深くなる。

    「あの……山灯館へようこそ……?」
    「…………」
    「ご、ご宿泊……ですか?」
    「……そうだ」
    低く、どこか聞き覚えのある掠れた声。
    「では、お名前を帳簿に――」

    青年は深いため息をつき、頭を抱えるように天を仰いだ。
    「……お前、本気か?」
    「え?」
    「……いや。もういい」
    「???」

    初対面のはずなのに、なぜかこの青年、ものすごく機嫌が悪い。

    「あらまぁ!」
    小春の後ろから、ガラリと引き戸を開けて母が出てきた。

    「あら久しぶりじゃない! 元気にしてた?」
    「……まあ、どうも」
    「お母さん、知ってる人……ううん、知ってるあやかしなの?」
    「もちろんよ!」

    母は嬉しそうに手を叩いた。
    「この子ね、数年前から何度かフラッと泊まりに来てくれてるのよ」
    「え? 私、一度も会ったことないよ?」
    「そりゃそうよ。毎回、あんたが寮やら一人暮らしやらで実家にいないタイミングで来るんだもの」

    青年の眉間のシワが、いよいよ眉心に埋まりそうなほど深くなった。

    「最初に来てくれたのは、小春が高校の寮に入った直後の春だったかしらねぇ」
    「……そうだ」
    「その次は大学二年の夏休み明け」
    「……そうだ」
    「去年も来たわね! 小春が帰省を終えて東京へ戻った三日後に!」
    「…………そうだ」

    なんだろう。
    この青年、見事なまでに運とタイミングに見放されている。
    「で? 今回は、小春が大学を卒業して実家に帰ってきたって風の噂で聞いて、飛んできたんでしょう?」

    「……っ! ち、違う! 俺はただ、温泉に入りたくなって寄っただけだ!」
    「毎回『小春はいるか』って玄関で開口一番に聞くくせに?」
    「女将! 余計なことを言うな!」

    青年は顔を真っ赤にして、ますます不機嫌そうに明後日の方向を向いた。

    だが。
    小春は、青年の横顔から目が離せなくなっていた。
    漆黒の髪。
    浅黒い肌。
    立派な黒い翼。

    そして――その、不器用で、怒ったような、拗ねたような表情。
    『人間は口が上手い。すぐ約束を忘れる』
    『忘れないもん! 絶対忘れない!』

    「…………あ」
    脳裏で、霧が一気に晴れ渡った。
    ピースが、カチリと音を立てて嵌まる。

    「もしかして……」
    青年が、ハッとして小春を見た。
    「……あのとき、山で私と指切りした……?」
    「……ふん。やっと思い出したか、バカ」

    呆れ果てたような声。
    けれど。
    ほんの少しだけ。
    青年の黄金色の瞳が、嬉しそうに揺れたのを小春は見逃さなかった。

    「じゃあ……あのとき、迷子になった私を山灯館まで送ってくれたのは、君だったの?」
    「は?」
    即答だった。
    「俺じゃない」
    「え?」
    「俺はお前に『そこで待ってろ』と言って、山灯館の場所を探しに飛んだ。だが、お前の家を見つけて大急ぎで戻ったときには――」

    青年の瞳が、少しだけ細められる。

    「お前はもう、跡形もなく消えていた」
    「…………」
    小春の背筋を、ヒヤリと冷たいものが駆け抜けた。

    では。
    あの日、幼い自分をあの深い深い山の奥から連れ出し、毛布を着せて山灯館の縁側まで運んでくれたのは……一体、誰だったのだろうか。

    「……まあ、お前が無事だったなら、それでいい」
    青年は気を取り直すように小さく咳払いをすると、小春を鋭く睨みつけた。
    「それより」
    「なに……?」
    「約束」
    「…………」
    小春は気まずそうに、そっと目を逸らした。
    「……思い出しました。『大きくなったら迎えにいく』って言いました……」
    「遅い。十五年も待たせる奴があるか」
    「ごめんなさい……」
    「俺は何度も、何度もここへ脚を運んだんだぞ」
    「それも今、お母さんから聞きました……すれ違いすぎてて本当にごめんなさい……」
    「毎回毎回、『今日はおらん』と言われてどれだけ俺が――」

    青年は途中で言葉を詰まらせ、むすっと口を結んで黙り込んだ。
    小春はその顔を、じーっと覗き込む。
    「……ねえ。もしかして、もの凄く拗ねてる?」
    「拗ねてなどいない!」
    「でも、顔に『拗ねてます』って書いてあるよ?」
    「怒っているんだ!」
    「似たようなものじゃん!」
    「断じて違う!」

    ぷいっと横を向く青年。
    だが、黒い髪の隙間から覗く耳の尖端が、ほんのりと赤く染まっている。
    その微笑ましいやり取りを、母が温かい目で見守りながら口を挟んだ。

    「それで、鴉天狗の若旦那。今回は何泊していかれるの?」
    「……決めていない」
    「あら、長期滞在? 文太さんみたいに?」

    「……場合による」
    青年はちらりと、横目で小春の様子を伺ってきた。

    「何が場合によるの?」
    「別に。お前には関係ない」
    「あ! また不機嫌になった!」
    「なっていない!」
    「なってるってば! わかりやすいなぁ!」

    山奥の温泉旅館、山灯館。
    人間。
    妖怪。
    幽霊。
    神様。

    そして今日。
    幼い頃に小春と「迎えにいく」という約束を交わし。
    その約束の相手がいつまで経っても迎えに来ないから、しびれを切らして自分から何度も山灯館を訪ね。
    そのたびに見事なまでにすれ違い続け、十五年越しにようやく約束の相手に再会できた――一人の不器用な鴉天狗がやって来た。

    ようやく念願の再会を果たせたというのに。

    どうやら。

    彼の長年積もり積もった機嫌が直るまでには、もうしばらく時間がかかりそうである。

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    わかモン様から【#秋のラノベ祭り】にお誘い頂きまして、参加させてもらいました✨
    初めての企画参加なので
    間違えてたら教えてくださーい💦

    猫丸の思い付き妄想小説を
    読んでいただき
    誠にありがとうございまする😭

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    猫丸が妖怪だったら【小豆洗い】になりたい(笑)
     
     
    はじめまして、ゲームとイラストをこよなく愛す野良猫です。 最近ハマってるのはChatGPT.AI画像生成と恋愛小説を書く事です。 まだまだ初心者未熟者ですがよろしくお願いします。 好きなゲームはff14です。 最近サボり気味ですが、そろそろ動き出したいなって思ってます。

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