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酷評と高評価~見たいものが観れた時、人は満足するのだろうか?

     こんな映画を観てみたいとか、そういう願いが叶ったとき、果たして人は満足するのだろうか?

     現在、とんでもない勢いで興行成績220億円をたたき出しているコミック原作の映画『鬼滅の刃 無限城編』は、多くの人の『見たいも』のをみせてくれた作品のひとつだろう。

     また、アメコミではジェームズ・ガン監督の『スーパーマン』、MCUに初登場した『ファンタスティック・フォー』は、ファンが待ち望んだ作品である。

     当たり前にエンターテイメントと言うのはみせたい人と観たい人の間で行われる等価交換、或いは付加価値のある経済活動だ。顧客の「こんな作品が観たい」のニーズに応えるか、それ以上の満足をしてもらえるよう、制作者は創意工夫をし、プロモーターは仕掛け、宣伝をする。

     それは理想的なwin winの形であるが、SNSを中心としたネット界隈を覗き見ると、一定数、不満や厳しい批評を目にする。もちろんすべての人を満足させることなど、どんなエンターテイメントも、どんな商品も出来ないのかもしれないが、特に映画やドラマ、アニメなど映像作品においては『賛否両論』或いは『酷評』なんて文字がどんな作品にも着いてくる。

    ※筆者は【沖田遊戯の映画アジト】のレビューは好きですし、彼の映画に対する視点は、筆者に近いものがあり、好評、酷評どちらも聞くべきところがあるので、だいたいチェックしています。オススメ。

     しかし、そうした現象は、ある意味健全であるのかもしれない。むしろ80年代や90年代は特定のアーチストや監督、俳優に対して盲信的な支持のもと、みんながいいというのだから、いいに決まっているという風潮が強かったようにも思える。

     実際、筆者自身、そうした音楽を「産業ロック」などと揶揄したり、アイドルを小ばかにしたり、或いは人気俳優の失速や名監督の失敗を冷ややかな目で見ていたという経験、それが正しいと思ってしまう時期があったのは確かだ。

    ※今般亡くなられた渋谷陽一さんは大好きな批評家でした。彼の造語である「産業ロック」という言葉は、悪い意味で独り歩きしたのかもしれませんが、どちらかというとこの言葉はアーチストに向けられたのではなく、レコード会社に対してだと、今は理解しています。
     とはいえ、当時の筆者は揶揄していた口です(笑)


     それはカウンターカルチャーへ傾倒する流れになるし、いわゆる中二病という症状でもある。

     そうした経験を踏まえて筆者が思うのは――
    『見たいものが観れた時、人は満足するのだろうか?』という疑問である。

     さて、多くの人がそうであるように、筆者も10代の頃に見聞きしたエンターテイメントは強く心に残っている。ものによっては想い出補正がかかりすぎて、今見ると「あれ? こんな感じだったけ?」と思うこともある。

     その頃、筆者は流行歌や世界的にヒットした娯楽作品をみつつも、批評家たちが賛美する古くて新しい作品に触れるように努めていた。いわゆる名作と言われる作品やその時代に影響を与えたアーチスト、作品、映画、監督、俳優などをレンタル店で物色したり、中古ショップで買いあさっては自分の知識欲を満たし、見識を高めることに価値を見出していた。

     その意味では観たいもの、聴きたいものを摂取し、期待以上の満足を得られた経験をしてきたと言える。もちろん、まったく理解できないものや、自分には向いていないと切り捨てた作品もある。

     時代は変わって現代ではネットに繋がれば、ほとんどのエンタメ作品が簡単に視聴できる。その環境が当たり前になった世代が創作する作品はこれまでとは違い、実にバラエティに富んでいる。
     筆者の時代では創作はある程度歴史的文脈の中から生まれてきていたので、時代性に同時性があったのではないだろうと考えている。
     ビートルズやストーンズがそうであるように、ブルースやR&Bからロックンロール、それがフォークやクラッシック、JAZZなどの要素を吸収し、様々な音楽ジャンルが生まれてくる。それは派生である以上、系譜が存在し、時代が求める「何か新しいもの」をオートマチックに創造し、ときに周期的に古いとされていたものが再評価され、アップデートされていく。

     ここにはもちろん技術の進化がかかわってくる。映画でいえば撮影技術、特撮技術、編集のデジタル化、CG。音楽で言えば電子楽器や録音技術のデジタル化などがあげられる。

     しかしその歩みも2010年代には確立され、よく言えば洗礼、悪く言えば停滞していると言えるだろう。
     特に創作にコンピュータ技術が積極的に取り入れられてからというもの、仮想現実と現実の境目がシームレスに感じられるほど高度になってきた昨今では、リアルに人が空を飛んだり、或いはバラバラになったり、燃えたり、再生したりという表現が空想=見てみたい非現実との距離が縮まり、それによって刺激的な「観たこともない観てみたいもの」の存在感が軽くなっているように筆者は思える。

     筆者がアメコミ・ヒーロー映画に固執するのは、コミックの中で描かれていた奇抜な表現が実写としてとんでもないクオリティで体験できるからだ。  
     また、幼少のころから親しんできた仮面ライダーやウルトラマンといった日本を代表する特撮ヒーロー作品やゴジラをチェックするのも、子どもの頃、脳内で補完していた「ミニチュアに見えるけど、あんな戦闘機が飛んでいたらすごいな」とか「空高くジャンプしてキックをしたら爽快だろうな」という体験が現代の撮影技術でどう進化したのかを確認したいからでもある。

     もちろん、こうした作品にはもっと別の魅力があり、それなしには語れない部分は大きい。しかし、どんなに素晴らしい脚本も、演技もルックがダサかったら台無しである。
     かつて低予算で作られた特撮テレビシリーズにはそれなりの哀愁があり、可愛げがあり、愛すべき存在でもあるが、それはまた違う楽しみ方なのだと思う。大事な視点ではあるが、それはまた、別の機会にしよう。

     もう少し、視点を変えて、「あったらいいな、がある世界」を人類は模索して、文明を築いてきた。
     カラーテレビが発明されるまで、多くの人が夢をモノクロで観ていたという。これは実に面白い話であるが、筆者も記憶している古い夢には白黒のものが確かにあった。
    「音楽を街に持ち出そう」というキャッチフレーズでSONYがWALKMANを発売したとき、世界は大きな転換点を迎えた。


     それまで音楽は家のラジオやステレオで聞くか、車の中で聴くものだった。ラジカセの登場は好きな音楽をカセットテープに録音して手軽に持ち運べるようにしたが、それは部屋のどこでも聴けるが基本だったし、街中で爆音で音楽を流したら苦情が来るのが当たり前だった。

     喫茶店やバーは外で音楽を楽しむ貴重な場所だったし、ディスコやクラブは爆音でそれを愉しめる唯一の場所だった。ライブ演奏はコンサート会場に行かなければ観れないし、目の前で観たいのならライブハウスに行かなければならなかった。

     テクノロジーが音楽により大きな空間的自由を与えた結果、音楽は特別なものではなくなった。録音再生メディアの発達とネットワーク化はスマホという形に帰結し、好きな時に、好きな場所で、好きなものを、いくらでも視聴できる環境になった。

     当たり前に手に入るものとは、大事にされることなく粗雑に扱われることが多くなる。この点が今と昔の違いであるのかもしれない。
     つまりこれまではどんなエンターテイメントでも、それがあることに特別さやありがたさを感じることができた分、みんなで楽しもうという気分になり、悪く言えば、みんなが楽しいでいるものに茶々を入れるのは無粋というものだった。

     しかし、現代ではどうだろう。
     なぜ、人々は軽々しく、つまらない、おもしろくない、あそこがダメ、ここがダメだと欠点を気軽に楽しくあげつらうのだろうか。

     筆者としてはだから昔のほうがよかったという結論にしようとは思わない。ポップカルチャーとカウンターカルチャーがきっちり識別できた時代はもう終わった。それを嘆いてもしかたがないし、おそらくこの流れは逆流しない。

     物事はすべて文脈の上に成り立っている。今は起きていることは過去から現在に続く文脈の上に起きるべくして起きていると言える。
     そこに善悪はないし、好き嫌いを言ったところで、こぼしたミルクは戻らない。

     筆者が注目すべきと考えるのは『見たいものが観れた時、人は満足するのだろうか?』という問いに対する答えを見つけることだ。
     例えばここに、「本当にみたいものが観れているのか」という質に注目した場合、実はもう、見たくもないものを見てしまっているのかもしれないという仮説を立ててみた。
     そしてもう一つ、「観たいときに観ているのか」「観るのに最適な時と場所で観ているのか」という観る側、聴く側の問題だ。
     さらに言えば、「誰と」という要素も付け加えたい。

     どんなに美味しい食べ物でも、誰と一緒に食べるのかでまったく違ってくる。子どもたちと一緒に食べる回転ずしと、ランチに一人で食べる回転ずし、同じ寿司でも前者の方が余計にお皿に手が伸びる。
     美味しそうにスーツを食べる女子とカフェに入ったら、自分も食べてみたくなる。

     普段は一人で映画館に行くが、この映画ならこの人好きそうだなっていう誰かと一緒に観たほうが楽しい場合もあるし、自分が気づかなかったポイントの感想を聞けたりすると視野が広がる。

     要は、心構えの問題だと、そんな精神論的な結論になっているように思えるかもしれない。しかし、エンターテイメントの本質は楽しむためにあるのであって批評されるために作られているのではない(もちろん、すべてではないが)。

     果たして筆者が劇場で鬼滅の刃の最新作を観るかどうかはまだ未定だが、少なくとも楽しむための準備は出来ているし、過度な期待もしなければ、意地悪く不満点を探す気もない。
     筆者の価値観に照らし合わせ、持論をここで記事にすることもあるかもしれないが、少なくとも「こういう人にはお勧め、こういう人はちょっと期待値を下げたほうがいい」という愉しむためのコツまではいかないまでも、夏の海に行くのであれば、これとこれは準備しておいた方がいいくらいの助言はしたいと思う。

     とはいえ、こんな記事をどんな読者が読んで楽しんでくれるのかと考えたときに、やはりこの言葉を残したいと思う。

     ひとそれぞれ、と。

     楽しみ方にもいろいろある。好きにすればいいが、人が楽しんでいるところに水を差すことを愉しんでいるのだとしたら、それはとても寂しいこと。

     認めたくないけど、筆者にもそういう気持ちがないわけではない。でも、向き合う術は知っているし、誰にだって苦手な物、嫌いな物は存在するのだから、サムネに酷評とつけるよりも、もっと自分が楽しめるものを探せばいいんじゃないかと、そう思うわけです。

     ただ、ここには大きな落とし穴があります。人は誰かの高い評判よりも悪口のほうが聞きたがる……。
     人の不幸は蜜の味なんて言葉があるくらいですから、酷評のうち7割くらいは評論になっていない可能性があると知っていれば、その穴に落ちることもないのかなと思います。
     それにちゃんとした酷評も間違いなくあるので、そこは見極めていきましょう。

    ※おまけの夜、柿沼さん、ジャガモンド斉藤さんの二人が熱く語るのは映画が好きだからこそ。このお二人の映画評はいつもチェックしています。


     
     
    品行方正品性下劣な何か書いています。やたらと書いています。物語とかそんなものを。 めけめけの由来 フランス語の「Mais, qu'est-ce que c'est?」(メケスクセ、「だけどそれがどうしたの?」の意)を訛って「Méqué méqué?」(メケメケ)と発音。

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