
なぜ、私は18年も中国語を勉強しているのか?
中国人スタッフから、よく言われる。
「中国語を勉強する時間があるなら、その時間を営業活動に使った方が会社の利益が上がるんじゃないでしょうか?」
「4年で通訳できるレベルになりましたよ」
「経営者なら、中国語より経営の本を読んだ方がいいんじゃないですか?」
中国の取引先からも、こんなことを言われたことがある。
中国的事情当然是中国人来做最好!
「中国のことは中国人がやるのが一番いい」
という意味だ。
分かっている。
言っていることは、たぶん正しい。
でも、心の中ではこう思っている。
うるせえ。
以前は毎週日曜日の中国語学校にも通っていた
20歳以上歳の離れた若者達に、
「中国語を何年勉強しているんですか?」
と聞かれる。
答えは18年だ。
みんな驚く、でも私は「何年」という数字には、あまり意味がないと思っている。
例えば、1年間365日、毎日12時間中国語を勉強したとする。
365日 × 12時間。
4380時間。
一方で、毎日1時間勉強すると、同じくらいの時間になるまで約12年かかる。
同じ4380時間でも、私はこの二つが同じだとは思わない。
集中して一気にやるのと、仕事や生活の合間に1時間ずつやるのでは、身につき方が違う。
これはサーフィンでも同じだと思う。
毎週日曜日に一回だけ海へ行く。
それを一年続ける。
それよりも、一週間ずっと海の近くに泊まって、朝も夕方も毎日サーフィンする。
同じ回数海に入ったとしても、後者の方が一気に上達することがある。
頭も体も、そのことばかり考えているからだ。
中国語も似ていると思う。
だから、
「4年で通訳レベルになりました」
と言われても、
その4年間をどう過ごしたのかによって、まったく違う。
学生と、53歳の経営者では条件が違う
学生なら、勉強すること自体が仕事みたいなものだ。
もちろん学生にもいろいろあるけれど、一日の大部分を語学に使うこともできる。
社会人になると、そうはいかない。
まして会社を経営していると、頭の中には常にいろいろなことが入っている。
売上。
利益。
社員。
取引先。
工場。
在庫。
納期。
不良。
資金。
日本にいても考える。
ミャンマーにいても考える。
中国語を勉強していても、
「あの商品、間に合うかな」
なんてことが突然頭に入ってくる。
だから、学生時代の一年と、仕事をしながら勉強する一年を単純に比べることはできないと思う。
語学を本気で勉強するために、
「仕事を辞めます」
という人もいる。
それも一つの方法だ。
でも、私は違う。
仕事をしながら勉強して、仕事をしながら習得したい。
私にとっては、そこにも意味がある。
2008年、北京オリンピックの年だった。
その頃の私が知っていた中国語なんて、
「你好」
「谢谢」
その程度だった。

そこから
中国にも住んだ。
工場へ行った。
中国人と仕事をした。
食事もした。
酒も飲んだ。
そして気がつけば、2026年。
18年経っている。
と言うと、
「18年間も中国語を勉強しているんですか?」
と思われるかもしれない。
違う。
そんなに立派な18年間ではない。
中国語は何度もやめた。
たぶん4回くらい。
「もういい」
と思って、参考書を捨てたこともある。
そして、しばらくすると、
また中国語が気になる。
また参考書を買う。
勉強する。
また嫌になる。
またやめる。
そして、また始める。
これを繰り返している。
俺は「やるやる詐欺」だ
「中国語を本気で勉強しています」
と言いながら、18年経っても自分が思うレベルには到達していない。
これは結構悔しい。

中国語の勉強が嫌になった時、昔仕事で関わった二人の中国人を思い出すことがある。
詳しい話は割愛するが、二人とも商売はうまかった。
話もうまい。
行動力もある。
そして、とてもメンツを大切にする人たちだった。
ただ、私はどうしても信用できなかった。
商売がうまいことと、信用できることは別だと私は思っている。
商売人としての能力がある。
むしろ、そこは認めている。
だからなのかもしれない。
中国語をやめようかなと思った時、なぜかこの二人の顔が出てくる。
そして、
「こいつらには負けたくない」
と思う。
すると、
「クソ、もうちょっとやるか」
となる。
日本語学校で知り合う学生さんが言う、
日本の事大好きです、おしん 見て勉強してます、
富士山いきたいです!
って聞くと、なんできれいな勉強動機なんだと思う。
尊敬する人に追いつきたい。
憧れている人のようになりたい。
きれいだ。
純粋だ。
でも、人間のエネルギーなんて、そんなにきれいなものばかりではないと思う。
悔しかったこと。
腹が立ったこと。
理解できなかったこと。
それも全部、燃料にすればいい。
少なくとも私には、結構効く。
旅行で困らない中国語が目標ではない
今なら、中国を一人で旅行するくらいなら、それほど困らない。
ホテルで問題があれば聞ける。
分からないルールがあれば説明してもらう。
食事もできる。
買い物もできる。
移動もできる。
でも、それは私が目指している中国語ではない。
私がなりたいのは、
いわゆる「ペラペラ」だ。
中国人同士が普通のスピードで話している会話に入れる。
いちいち頭の中で日本語に訳さない。
聞いた中国語を中国語のまま理解して、そのまま返す。
冗談を言われたら、その場で笑える。
こっちからも冗談を言える。
仕事で意見が違えば、自分の言葉で説明する。
腹が立ったら、自分の言葉で言い返す。
通訳を通さず、自分で相手と話す。
そこまで行きたい。
発音は「池袋弁」でいい
別に、中国人とまったく同じ発音になりたいわけではない。
日本人が話す中国語でいい。
訛っていてもいい。
私は勝手に、
「池袋弁で十分だ」
と思っている。
日本人が話している中国語だと分かっても構わない。
発音を完璧にするために、話すこと自体が怖くなるくらいなら意味がない。
もちろん、通じる発音は必要だ。
でも私が欲しいのは、
「中国人みたいな発音ですね」
と言われることではない。
普通のスピードの中国語を理解して、自分の考えを中国語で返せること。
そっちの方が大事だ。
それでも、なぜ中国語をやるのか
最初の話に戻る。
中国人スタッフの言っていることは、たぶん正しい。
私が中国語を一時間勉強する。
その一時間で営業した方が、会社の売上は増えるかもしれない。
経営の本を読んだ方が、社長として役に立つかもしれない。
中国の仕事は中国人に任せた方が効率もいい。
全部その通りかもしれない。
でも、
効率だけで全部を決めたくない。
会社の売上を最大化することだけが、私の人生ではない。
仕事をしながら、難しいことを一つ覚える。
できなかったことが、少しずつできるようになる。
昨日聞き取れなかった言葉が、今日は聞こえる。
以前なら通訳を呼んでいた場面で、自分で話せる。
その瞬間は、単純にうれしい。
「社長なんだから、中国語なんて人に任せればいい」
と言われても、
私は自分で話したい。
なぜか。
結局、答えはものすごく単純だ。
自分が、できるようになりたいからだ。
2008年。
「你好」と「谢谢」から始めた。
あれから18年。
4回くらいやめた。
参考書も捨てた。
そして、また買った。
まだペラペラではない。
だから悔しい。
でも、まだ終わっていない。
この先、また参考書を捨てる日が来るかもしれない。
その時はたぶん、
また買うと思う。
ペラペラになるまでは、やめられない。