【私の人生】第1章-7:"あの日、"
※東日本大震災についての描写があります。苦手な方は閲覧をお控えください。
受験が終わって、一段落。
学校にはあと数日通うだけで、残るは卒業式と、合格発表。
合格するかの不安はあるものの、勉強から解放された私は、家にいればケータイを触りまくっていた。
それまで、一応勉強に集中するということで、航とメールしたり、待ち受け画面やデコメを探すために使っていたくらいで、他の機能はあまり触っていなかった。
暇になったから着うたを探してみたものの、基本有料であることを知り、わずかなお小遣いで早々に諦めていく。
だけど唯一、持っていた曲があった。
miwaの『春になったら』。
あの時期、使ってた携帯キャリアのユーザー限定で、無料ダウンロードできた曲。
どうしていいのかわからない毎日が過ぎて
涙だって出ちゃうけど 前を向いたら
少しは強くなれるかな
"大丈夫 大丈夫 きっとうまくいくはず"だって
君からのメール見たら 元気出たよ
もうすぐ春が来る
私の気持ち まだ言えなくて
サビのこの部分が着うただった。
航とメールをするやりとりそのものが、私の元気のもとだった。
だから共感しすぎて、メールの着信にしてみた。白いライトと共に。
卒業式は受験翌週の土曜日。
学校ではもう勉強から解放され、卒業楽しみムード。
届いた卒アルにみんなで寄せ書きし合ったり、卒業式後の自宅待機期間に近場へ遊びに行く予定を考えたり、わいわいと過ごしていた。
毎年、バレンタインに友達への義理チョコを作っていた私は、その年受験ピーク時期だったこともあって、何も作っていなかったことが心残りだった。(そういう慣例的なものを気にするのは昔からだったみたいだ。)
直近クラスで仲の良かった子に厳選して、簡単なものをつくって卒業式の日に渡そう…なんて思っていた。
卒業式前日は午前授業で終わりだから、そのあとにでもつくるつもりで、材料を買い込んでいた。
3月11日、金曜日。
午前で帰りの会を終えて、友達と「また明日。」と別れる。
かつて、わけのわからない揶揄で傷ついた記憶も、楽しかった記憶も含めて、感傷に浸りながら。
帰って、義理チョコをつくり始める。めちゃくちゃ簡単なものにしたから、1時間ちょっとで終わった。
ラッピングして、明日忘れないように。
一息つこうとしたとき、ゆらっときた。
「地震?」声を出したときには、どんどん揺れは増していく。
たまたま仕事ではなくて、家にいた母が「テーブルの下入ろう」と言った。ダイニングテーブルの下に潜った。
大きくて長い、嫌な横揺れだった。
揺れが収まってから、テーブルの下から出る。
母がテレビを点けると、全国ニュースのチャンネルで、声を張り上げるアナウンサーが映し出された。
「只今、東方地方を中心に非常に大きな揺れが…」
すごく嫌な雰囲気だ。東北が震源の地震で、遠く離れたここでも相当揺れたなんて、震源地はどれほどひどかったんだろう。
幼い時に何度か震度5程度の地震は経験があったが、、大した被害は出ていなかったし、局地的なものだった。
でも、今回はなんだか、とんでもないことが起こってる。
頭を過ぎった。"航は大丈夫なんだろうか"。
パソコン置場の横に置かれていたケータイを手に取る。
"とにかく無事で"。祈りにも似たような緊張感で、文字を打つ。
『地震大丈夫?こっちは揺れたけど平気。』
短い文で送る。画面を開いたままにしていたら、すぐに着メロが鳴った。
『こっちも大丈夫。浅葱が無事で良かった。』
その文字を見て、ホッとした。彼が無事で本当に嬉しかった。
『航も無事でよかった。』その気持ちをまたすぐに送信した。
放課後になった弟たちが、通常通りに帰ってきて。
でも一方、点けっぱなしにしていたテレビから、次々に信じられない光景が目に飛び込む。
リアルタイムで画面越しに見てしまった、八戸港の津波の様子。数年前、フェリーに乗ったときに訪れた土地が、波に飲まれていた。
…見ているここ、本当に、同じ日本?
ぞっとした。
普段平日ほとんどいない母が家にいて、本当に良かったと心から思った。一人だったら、弟たちとだけだったら、耐えられなかったと思う。
…こんなことになってて、明日の卒業式、できるんだろうか?
一抹の不安と共に夕方を迎えた頃、"予定通りの卒業式実施"を告げる連絡網が来た。
もしできなければ悲しすぎるけれど、やるとなると"いいんだろうか"と思ってしまう、どっちつかずの気持ちだった。
航の通う学校もやると聞き、どうやら市内の中学は予定通りに実施するということを知る。
地震以降、手にはずっとケータイを持っていた。
テレビからどんどん悲惨な様子が流れてくる。
大変なことになっている様子。怖さ。
それを、航とずっとメールで共有し続けた。
現実離れした現実で、夜寝るのも怖かった。
でも、寝る前にメールで最後に航から『おやすみ』と送られてきたのを見ると、安心できた。
翌日。
3年間好きじゃなかった、黒黒としたセーラー服を着て学校に行くのは最後。嫌いな制服すらなんだか名残惜しかった。
前の日に作ったチョコは、友達に渡せた。
卒業式、退場でクラスごとに客席に向かって一礼するときに泣いた。
泣くつもりなかったし、他の人全然泣いてないのに。
教室の黒板には、チョークで大きく書かれた"祝・卒業"の文字と、クラスのメンバーからの一言。
クラス女子の中で、この組を表す言葉として使われていた"最狂"の文字をはじめ、みんな思い思いに最高さを表していた。
バカでアホで(クラス平均成績を出したときだいたいビリで、担任によく「勉強も頑張りましょう」と言われていた)、明るく元気、群れてはいるけど誰かをいじめる男子はいなかったし、女子のカーストはないわけじゃないけど性格激悪な人はいない、過ごしやすいクラスだった。
黒板を見て、"ああ寂しいな"と思った。
ただ、そんなクラスだったから、黒板には、地震の件でここには書けないくらい不謹慎な内容もあった。
最後に渡された学級通信。
担任が『初めて担任を持ったこのクラスで、前日に大きな地震のあったこの卒業式、一生忘れません。』と書いていた。
読んだとき、じんときた。
各々、持っていったデジカメや、"最後くらい"と持ち込んだケータイで、友達や先生と写真を撮って別れを告げる。
2年生からは別のクラスになった、怜含む1年のとき常に一緒にいた子たちとも。「またね、元気でね。」と。
ほぼ全員地元に残り続けるから、今生のお別れ感は少なかったけど、やっぱり寂しかった。
私達はアホな生徒だったけれど、
あの状況で無事卒業式ができたことは、みんな安堵していたと思う。
その日、頭を過ぎったこと。
それは、"卒業式と言えば、意中の男子の第2ボタンをもらう"、という憧れのシチュエーション。
航の第2ボタンが続いて頭に浮かんだ。
"欲しいな、言ったらもらえるのかな、でも無かったことにした仲で言うのもな"、なんて思った。
でも、いろんな感傷に浸るのも束の間、
その日、帰ったら、福島原発が爆発したことを知る。
航とのやり取りは、地震直後以降、それまでよりペースを上げて続いていた。
卒業式で学校にいた時間以外は、ずっとメールしてたと思う。
地震当日だけでなく、その後も次々に起こった異常事態が、延々と情報として流れてくる中で、この土地の自分たちは普通に過ごしていて。
でもテレビ画面の向こう側には、別世界のようなことが起こっていて。CMも全て公共広告に切り替わって、全然普通じゃなくて。
そのギャップのようなもので、心が乱れていた。
だからこそ、好きだった航とひたすらメールを続けることで、平静を保っていたかった。実際、少しは落ち着いたし、メールしていなかったら不安でもっと乱れていたと思う。
一瞬で幾千の命が消えていき、それ以上の人々が想像もつかない苦しみの渦中にいる中、
会えなくても、『おはよう』から『おやすみ』まで、ずっと繋がっていて、
"大好きな人が今生きている"ことを、どれほど大事なことだなんて、
あの日、初めて知った。
この話を書いていて、改めて思ったこと。
このときのことで残っているのは、会話の内容ではなかった。
感情だった。
そして、この時あったのは、
それまで抱いていたドキドキする恋愛感情というよりも、もっと別の、"切実さ"。
"大事な人が今ここにいること"を確かめ続ける、求め続けるような。
相手が私をどう思っていたとしても関係ない、"私にとって大事な人"が、ただそこにいてほしかった。
例え、すぐ会えない距離だったとしても。
ああやって、お互いの存在を確かめ合えることが、この時不安定だった私に、一番必要なことだったのだと、思った。
余談だが、
これ以降、度々津波の夢を見るようになった。
大人になった今でも、何か大きな地震が起こると見る。
揺れる場面はなくて。海に近い地元が、実家が、大津波に襲われる。高いところに逃げても、波が迫ってくる。そういった内容。
適応障害とはまた別の次元で、トラウマなのだと思う。
そういう気質だから、天変地異が起こって、無意識で情報を集めてしまっているとき、夫からよく「もう調べるのやめなさい」と言われる。
私らが生きてる間に発生する確率は高いと言われてるから、最早願うしかないし、願ってもどうにもならないかも知れないけど、
本当、二度と起こらないでほしい、あんな災害。
これまでの話は以下からご覧いただけます。