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本能寺の変1582 【ここがポイント!!】 02① 250615 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    【ここがポイント!!】 02①    250615

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    →【シリーズ】
     信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5 
    →その一因 目次大 概説大 目次中 →
     1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
     4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
     3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
    →見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
    →【重要史料】 全 【重史一覧】
    →【人物】 【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
    *◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
     信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
    *加筆修正 250615 

    【ここがポイント!!】 02①            250615

     信長は、誇り高い男。                   →信03
     正義感が強い。

     信長は、疑い深く、用心深い。
     信長は、忍耐強く、我慢強い。
     信長は、執念深く、粘り強い。
     根に持つタイプ。
     後で、必ず、蒸し返す。
     信長は、これを、粛清の口実とした。

     信長は、絶対専制君主。       →【重史146】⑨/⑲『日本史』
     己が、天下の支配者であることを強く意識していた。  →【重史172】
     信長は、誇り高い男。                    →信03
     
    その自負がある。

     以下は、永禄十三年1570一月、信長が、時の将軍 足利義昭に示した
     条書の中の一文である。

      一、天下の儀、何様にも、信長に任せ置かるのゝ上は、
        誰々に寄よらず、上意を得るに及ばず、
        分別次第に、成敗をなすべきの事、
          【重史171】「成簣堂文庫所蔵文書」「織田信長文書の研究」
     
     天正十年1582は、それから、さらに、12年後の世界。
     信長の体制は、当時と比較できぬほど盤石なものになっていた。
     
     信長は、「命」に背く者・逆らう者には、容赦しない。
     己の「命」を覆すことなど、有り得ぬことなのである。

     以下は、天正八年1580八月、佐久間信盛折檻状(①~⑲)の末尾部分。

      右、数年の内、一廉(ひとかど)の働きなき者、未練の子細、
      今度、保田において思ひ当り候。

      抑(そもそ)も、天下を申しつくる信長に、
      口答申す輩(ともがら)、前代に始り候条、
      爰(ここ)を以て、当末二ケ条(⑱⑲)を致すべし。
      請けなきにおいては、二度、天下の赦免、これあるまじきものなり。
                          【重史172】『信長公記』

     信長は、己に口答えする家臣を、決して、赦さない。  →【重史172】
     忍耐強く、執念深い。      →信10 【重史146】⑩/⑲『日本史』
     根に持つタイプ。
     後で、必ず、蒸し返す。

     佐久間信盛を見よ。
     「朝倉破軍の刻」         →【重史167】『信長公記』11/19
     宿老・古参故の甘えがあった、・・・・・。
     その一言が、命取りとなった。

      此の如く、御自筆を以て遊ばし、
      佐久間右衛門父子かたへ、
      楠木長安・宮内卿法印・中野又兵衛、三人を以て、
      遠国へ退出すべき趣、仰せ出ださる。

      取る物も取り敢へず、高野山へ上(のぼ)られ侯。

      爰にも、叶ふべからざる旨(むね)、御諚に付いて、
      高野を立ち出で、紀伊州熊野の奥、足に任せて逐電なり。

      然る間、譜代の下人に見捨てられ、かちはだし(徒歩裸足)にて、
      己と草履(ぞうり)を取るばかりにて、見る目も哀れなる有様なり。
                          【重史172】『信長公記』

     信盛は、十津川の湯で、死んだ。
     奈良県の最南端、吉野郡十津川村の湯泉地温泉とされる。
     紀伊熊野との国境近く、山奥の湯治場である。
     療養のため滞在していたのだろう。
     
     これが、織田家筆頭家老の成れの果て。
     哀れな死に様だった。

     なお、同村武蔵に、信盛の墓所があるという。

      十九日、
      一、佐久間(信盛)、十津川の湯にて、死ぬにつき、

        高野の宿坊の庫(くら)の物、請け取るべきの由、
        信長より、仰せつけられ、上使、指し上せらるゝのところ、
        悉(ことごと)く 以って討ち殺しおわんぬと云々、

        これにより、諸国の高野聖とらえらる、
        近日、手遣ひあるべきの由、沙汰に及ぶと云々、
        則ち、来たる廿三日、陣ふれ(触)、これ在りと云々、
        高野滅亡、時刻到来か、
                         【重史173】「多聞院日記」

     光秀は、信盛の死を、奈良で知った。
     光秀は、この時、筒井順慶の居城、郡山城の普請を検分するため、奈良に
     来ていた。
     順慶は、光秀の与力。
     その指揮下にあった。

      一、惟任日向守、郡山城普請見舞として、
        今朝、早々、成身院まで越しおわんぬ、

        十新、是へ来しおわんぬ、
        成(成身院)にて、一献これ在り、

        頓(やが)て、郡山へ同道しおわんぬ、
        人数、百計(ばか)り歟と云々、
                         【重史173】「多聞院日記」

     この時のことが、光秀の脳裏に、こびり付いている。

     光秀は、信長の性格・気性等を知り尽くしていた。   →【重史172】
     信長には、
     「逆」らっては、ならぬ。
     「口答え」など、以ての外。
     なの、である。  

     光秀は、そのことを、他の、誰よりも、よく知っていた。

     その筈だった・・・・・。

     だが、・・・・・。



     ⇒ 次へつづく

     
     
    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

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