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本能寺の変1582 【重史144】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    【重史144】 『信長公記』 

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    →【シリーズ】
     信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5 
    →その一因 目次大 概説大 目次中 →
     1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
     4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
     3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
    →見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
    →【人物】 
    *◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 ✓=チェック済
     そ=その一因 テ=テーマ別 
    *加筆修正 

    【重史144】 そ第11話㉙

    ①御前へ、信長、召し出だされ、

    ②忝くも、三献の上、公儀御酌にて御盃、

                           『信長公記』


     永禄十二年1569、四月二十一日。
               156900421

      信長にとっては、名誉この上なきこと。
      正に、蜜月の時。

       (信長は)御祝言の御太刀、御馬御進上。
       御前へ、信長、召し出だされ、
       忝くも、三献の上、公儀御酌にて御盃、
       幷に、御剣、色々、御拝領。
       御面目の次第、申すも愚かに侯。
                               (『信長公記』)

      【参照】「言継卿記」永禄十二年四月二十一日条。

      信長は、諸将らに帰国を命じた。  

       今度、隣国の面々等、長々在洛にて、粉骨を尽され、
       信長、其の面々へ、御礼仰せられ、帰国の御暇、下され侯ひしなり。
                               (『信長公記』)


     【引用】 そ第11話㉙



     ⇒ 次へつづく

     
     
    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

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