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本能寺の変1582 【重史138】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    【重史138】 「言継卿記」 

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    →【シリーズ】
     信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5 
    →その一因 目次大 概説大 目次中 →
     1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
     4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
     3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
    →見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
    →【人物】 
    *◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 ✓=チェック済
     そ=その一因 テ=テーマ別 
    *加筆修正 

    【重史138】 そ第11話㉖

    ①一月二十七日、

    ②光源院御古城また御再興、

    ③織田弾正忠信長、奉行せしめ御普請これあり、

                          「言継卿記」


     永禄十二年1569、一月二十七日。
               156900127

      工事は、すでに、始まっていた。
      「本國寺襲撃事件」は、一月五日のことである。
      それから、わずか、二十日後。
      「即決即断」
      信長は、早い。

      【参照】そ第11話㉔ 3 42粛清3 永禄12 本國寺1 明智十兵衛 史
          そ第11話㉕ 3 43粛清3 永禄12 本國寺2 信長上洛  史

      信長は、自ら、普請現場に立った。
      山科言継が、その現場で、信長に拝謁している。

       一月二十七日、辛未(かのとひつじ)、天晴、
       未の刻(14時頃)より雨雪降る、正月中、
       当年、今に、武家に参らずの間、朝飡(さん)以後出仕、
       供、澤路隼人佑・小川与七郎・鍋千代・弥左衛門ばかりなり、
       先ず、勘解由小路町、室町真如堂、光源院御古城また御再興、
       織田弾正忠信長、奉行せしめ御普請これあり、
       仍って、立ち寄り礼、を申す、
       暫し雑談、
                               (「言継卿記」)


     【引用】 そ第11話㉖



     ⇒ 次へつづく

     
     
    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

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