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本能寺の変1582 【重史159】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    【重史159】 「細川家文書」 

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    →【シリーズ】
     信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5 
    →その一因 目次大 概説大 目次中 →
     1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
     4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
     3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
    →見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
    →【人物】 
    *◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
     そ=その一因 テ=テーマ別 
    *加筆修正 

    【重史159】 そ第11話⑪

    ①其国(丹後)に至り、早々、参着候由、尤も以って然るべく候、

    ②様子に於ては、惟任かたより、具(つぶさ)に申し越し候、

                          「細川家文書」


     天正八年1580、八月十三日。
                 158000813

      光秀は、丹後いた。  
      藤孝、同。
      光秀の報告は、完璧だった。

       其国(丹後)に至り、早々、参着候由、尤も以って然るべく候、
       様子に於ては、惟任かたより、具(つぶさ)に申し越し候、
       弥(いよいよ)、相談じ、
       政道彼れ是れ、由断(油談)無く申し付くるべき事、専一に候、
       此方の見舞、遅々、苦しからず候、
       猶、珍しき儀候はゞ、注進すべく候也、
        (天正八年)
          八月十三日      信長(黒印)
           長岡兵部大輔殿
                              (「細川家文書」)

     【引用】 そ第11話⑪



     ⇒ 次へつづく

     
     
    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

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