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本能寺の変1582 【重史102】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    【重史102】 「多聞院日記」 

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    →【シリーズ】
     信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5 
    →その一因 目次大 概説 目次中 
     1時代の風潮 2光秀の年齢と嫡男光慶 3光秀という男 4光秀の苦悩 
     5志向の相違 +信長の油断 
    →見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
    →【人物】 
    *◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
     そ=その一因 テ=テーマ別 
    *加筆修正 

    【重史102】 そ第30話①

    細川ノ兵部太夫が中間にてありしを、

                          「多聞院日記」

     永禄十年1567、冬。
     多聞院英俊の証言。
     以下は、山崎の合戦(天正十年六月十三日)で、秀吉に敗れた光秀が、
     逃げる途中で一揆勢に討ち取られたことを記録したものである。
     この中にも、これに関する記述がある。

      一、惟任日向守は、十二日勝龍寺より迯(逃)げて、山階(科)にて、
        一揆にたたき殺され了(おわんぬ)、
        首もむくろ(骸)も、京へ引き了と云々、
        浅猿(あさまし)〃〃、

     光秀は、細川藤孝の「中間」だった。
     
    「大恩を忘れ」、「天命此の如し」、とある。
     これが、当時の人々の、一般的な見解だったのだろう。

        細川ノ兵部太夫が中間にてありしを、これ引き立て、

        中國の名誉に、信長、厚恩にて、これ召し遣はされ、
        大恩を忘れ、曲事(くせごと=謀叛)を致し、
        天命此(かく)の如し、
                   (「多聞院日記」天正十年六月十七日条)

     光秀は、没落していた。
     
    「美濃国住人、土岐の随分衆なり」   →そ第53話
      ↓
     主君土岐頼純が、斎藤道三に殺された。 →そ第158話④
      ↓
     光秀は、牢人になった。        →そ第158話④
     光秀の雌伏時代は、ここから、始まった。
     「濃州土岐一家牢人たりしか」     →そ第200話③
      ↓
     「越前朝倉義景を頼み申され」     →そ第200話③

     「長崎称念寺門前に、十ヶ年居住故」
     光秀は、越前に居住していた。     →そ第151話①
     光秀の雌伏時代は、20年間つづいた。
     前半部分は、闇の中。
     これが、その、後半部分である。

     光秀の悲願、明智の再興。       →そ第151話②
     
    この一事が、光秀の原動力になった。
      ↓
     「好機到来」        →そ第29話② そ第30話①     
     人生最後のチャンス!!
     光秀、この時、すでに、四十代半ば。
     その様な、年齢になっていた。

     斯くして、
     光秀は、細川藤孝に巡り合った。
      ↓
     フロイス、「彼はもとより高貴の出ではなく」。    →そ第30話①
     多聞院英俊、「細川ノ兵部太夫が中間にてありしを」。 →そ第30話①
      ↓
     
    となれば、次は、信長、稲葉山・・・・・。

     永禄十年1567、終。

     【引用】そ第30話① ◎第30話 第30話



     ⇒ 次へつづく


     
     
    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

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