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本能寺の変1582 【重史222】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    【重史222】 『信長公記』

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     信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5 
    →その一因 目次大 概説大 目次中 →
     1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
     4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
     3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
    →見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
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    *◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
     信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
    *加筆修正 

    【重史222】

    ①さる程に、新門跡大坂渡し進(まいら)すべきの御請けなり。

    ②天正八年庚辰(かのえたつ)八月二日、新門跡、大坂退出の次第。

    ③抑(そもそ)も、大坂は、凡そ、日本一の境地なり。

    ④家門長久の処に、思はず、天魔の所為(しょい)来りて、

    ⑤爰に大坂立ち初めて以来、四十九年の春秋を送る事、

    ⑥信長公、御成りあつて、御見物なさるべく、其の意を存知、

    ⑦海上と陸と、蛛の子をちらすが如く、ちり々々に別れ候。

    ⑧余多の伽藍、一宇も残さず、夜日三日、黒雲となつて焼けぬ。

                          『信長公記』


     天正八年1580、八月二日。
                158010802

     教如が、退場を決めた。
     
      さる程に、新門跡大坂渡し進(まいら)すべきの御請けなり。

     「新門跡、大坂退出の次第」
     
      天正八年庚辰(かのえたつ)八月二日、新門跡、大坂退出の次第。
     
      御勅使、近衛殿・勧修寺殿・ 庭田殿。
      右の下使、荒屋善左衛門。

      信長公より相加へらるゝ御使、宮内卿法印・佐久間右衛門。
      大坂請取り申さるゝ御検使、矢部善七郎。

     大坂は、日本で最も豊かなところ。

       抑(そもそ)も、大坂は、凡そ、日本一の境地なり。
       其の子細は、奈良、堺、京都に程近く、
       (以下略)
                              全文【重史126】

      本願寺は、信長の軍門に下った。

       家門長久の処に、思はず、天魔の所為(しょい)来りて、
       信長公、一年、野田・福島御詰め候を (元亀元年1570) 、
       落去候ては、大坂手前の儀と存知、
       長袖の身ながら、一揆蜂起せしめ、
       (以下略)
                              全文【重史126】

      創山以来、四十九年にして、この地を去る。

       爰に大坂立ち初めて以来、四十九年の春秋を送る事、
       昨日の夢のごとく、 
       (以下略)
                             全文【重史126】

      信長は、威風堂々と本願寺に入城するつもりだった。

       然うして、大坂退城の後、
       頓(やが)て、信長公、御成りあつて、此の所、御見物なさるべく、
       其の意を存知、端々、普請掃除申しつけ、
       面(おもて)には弓・鎗・鉄炮等の兵具、其の員(かず)を懸け並べ、
       内には資財雑具を改め、あるべき躰(てい)を結構に飾り置き、
       御勅使、御奉行衆へ相渡し、
                               【重史126】

     石山本願寺、退城時の様子である。
     
      八月二日、未の刻(14時頃)、
      雑賀・淡路島より数百艘の迎へ船をよせ、
      近年、相拘(かか)へ候端城の者を初めとして、
      右往左往に、縁々を心懸け、
      海上と陸と、蛛の子をちらすが如く、ちり々々に別れ候。

     伽藍は、全て、灰燼と帰した。
     
      弥(いよいよ)、時刻到来して、
      たへ松の火に、西風来たりて、吹き懸け、
      余多の伽藍、一宇も残さず、
      夜日(よるひる)三日、黒雲となつて、焼けぬ。
                              (『信長公記』)                        


     【引用】【重史163】 そ第7話⑦

     【参照】【四国問題】 十 5月12日
        
    天正八年1580
        天正九年1581
        天正十年1582

     【参照】【四国問題 概要】



     ⇒ 次へつづく


     
     
    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

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