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本能寺の変1582 【 重史 006 】 250508 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    【 重史 006 】 「兼見卿記」    250508

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     信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5 
    →その一因 目次大 概説大 目次中 →
     1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
     4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
     3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
    →見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
    →【人物】 
    *◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
     そ=その一因 テ=テーマ別 
    *加筆修正 250508 

    【 重史 006 】 ◎第8話              250508

    (四月)十八日、妻木惟向州妹、参宮、

    (九月)廿五日、惟任姉(妹)妻木、在京の間、罷り向かふ、

                           「兼見卿記」

     光秀には、妹(妻木氏)がいた。
     妻木氏は、信長の側近くに仕えていた
    。
     妻木氏は、信長と光秀を繋ぐパイプ役だった。
     その役割は、大きい。
     情報源として、きわめて重要な存在だった。
     明智一族の存亡に、深く関わっていたと言っても過言ではあるまい。

     以下、吉田兼見の日記に登場する。

     天正七年1579、四月十八日。             157900418
     妻木氏は、書状を以って、吉田神社の参詣について尋ねた。

      十八日、癸巳(みずのとみ)、
      妻木惟向州妹、参宮、
      神事の義、書状を以って尋ね来たる、
      月水(月経のこと)の義なり、

     【参照】信長の軌跡
      天正七年 二月十八日 上洛。         『信長公記』
           三月 五日 京より摂州有岡へ出陣。 『信長公記』
           五月 一日 京に帰陣。       『信長公記』
           〃  三日 坂本経由で安土に帰城。 『信長公記』

     天正七年1579、九月二十五日。            157900925
     妻木氏は、上洛していた。
     「姉」とあるが、「妹」の誤り。

     兼見は、酒と食物を持参した。
     外出していたらしい。
     会えなかった。

      廿五日、戊辰(つちのえたつ)、
      惟任姉(妹)妻木、在京の間、罷り向かふ、
      双瓶・食籠持参、
      他行なり、
      女房に渡し、館に皈(帰)る。
                              (「兼見卿記」)

     【参照】信長の軌跡
      天正七年 九月 十一日 上洛。     『信長公記』
           〃 二十一日 京より伊丹へ。 『信長公記』
           〃 二十四日 池田に到着。  『信長公記』
           〃 二十七日 有岡城を視察。 『信長公記』
           〃 二十八日 京に帰った。  『信長公記』
           十月  八日 安土へ。    『信長公記』

     【参照】【重史007】
      惟任の妹の御ツマキ死におわんぬ、    「多聞院日記」

     【引用】4 光秀の苦悩 2志向の相違 ◎第8話 ◎小8 第8話



     ⇒ 次へつづく

     
     
    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

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