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本能寺の変1582 【重史149】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    【重史149】 「勢州兵乱記」 

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    →【シリーズ】
     信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5 
    →その一因 目次大 概説大 目次中 →
     1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
     4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
     3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
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    →【人物】 
    *◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 ✓=チェック済
     そ=その一因 テ=テーマ別 
    *加筆修正 

    【重史149】 そ第11話㉓

    ①北伊勢八郡、信長の御手に入り、

    ②工藤分は、上野殿与力に定まり、

    ③関分は、三七殿与力に定まる、

    ④北方諸侍分は、滝川家与力に定まる、

                          「勢州兵乱記」


     永禄十一年1568、二月。
                   1568002**
      信長が、足利義昭を擁して上洛する年(九月)。
                          第34話 ◎第35話 第35話

      次に、安濃郡・奄芸郡の長野氏。            【 人物 】
      こちらもまた、旧家・名門。
      「曾我兄弟の仇討ち」の「仇」として有名な、源頼朝(1147~119
      9)の御家人、工藤祐経の流れを汲む家柄である。
      平家討伐のため、安濃・奄芸、両郡の地頭に任じられた。
      故に、長野工藤氏とも称される。

      しかし、この頃は、かつての力を失っていた。
      北畠氏の影響下にあった。

      当主は、長野具藤。                  【 人物 】
      北畠具教の二男である。
      永禄元年1558の生れと云う。
      とすれば、まだ、十一歳。
      長野城を本拠とした(三重県津市美里町桂畑)。

      信長は、長野氏を攻めた。
      北東へ、凡そ二里半10km。
      安濃城が、その標的と成った(三重県津市安濃町安濃)。

      長野氏の家中は、二つに割れた。
      抗戦派(反織田)と和睦派(親織田)。

      和睦派の家臣たちが、主君具藤を追放。
      信長へ、和議を申し出た。
      すなわち、降伏。

      追い出された具藤は、父具教を頼って南伊勢へ。
      難を逃れた。

      信長は、弟信包を長野氏に入れた。
      信包は、先代長野藤定の娘を妻として、その名跡を受け継いだ。
      「長野三十郎信良」と称す。
      後、復姓。

      信包は、信長の弟。                  【 人物 】
      天文十二年1543の生れという。  
      とすれば、九歳年下。
      この年(永禄十)、二十六歳。
      おそらくは、同母。
      信長に、可愛がられた。

       一、織田信長、其れより、北伊勢を案内とし、
         工藤家(長野)を攻めんがために、安濃津(津市)まで打ち入り給ひ、

         先ず、細野九郎右衛門(藤敦)が城を攻められ、
         細野、剛者成るによって、落城せず、

         然る所に、分部左京亮(光嘉)・川北内匠助、長野に背き、
         信長の味方に参じ、
         長野の名跡を居給ひ候はば、長野次郎(具藤)を追い出し給はば、
         皆、味方に参らんと云ひ、

         此れ故に、信長の御弟、織田上野殿、長野の名跡として、別府を
         長野に居給ひ、神戸蔵人大夫(友盛)が姉婿に成し給ひしなり、

         これに依り、長野次郎は、追い出され、父国司を頼り、南伊勢
         へ退かるゝなり、

         雲林院出羽守(うじい)、並びに、草生(くさわ)・家所(いえどこ)・
         細野・中尾・乙部(おとべ)以下、工藤の一族・与力、
         皆、信長の御方に参じ候なり、

         又、関安芸守も、信長の味方に成るとなり、   
                              (「勢州兵乱記」)

      斯くして、信長は、北伊勢八郡を手に入れた。
      伊勢の北半分である。
      「瞬く間に」=永禄十年1567~十一年1568。
      しかも、将兵の損失は、ほとんど皆無。
      正に、「油断も隙もならぬ男」。
      これが、戦国時代。
      恐ろしい時代の、恐ろしい男だった。

      信長は、南伊勢に手をつけず。
      敢えて、残した。
      「これで、よい」
      来たる春。
      再び。
      「何事も、なければ」
      ・・・・・。

       一、北伊勢八郡、信長の御手に入り、

         工藤分は、上野殿与力に定まり、
         関分は、三七殿与力に定まる、
         北方諸侍分は、滝川家与力に定まる、

         又、津の城に、織田掃部介(津田一安)を置かれ、
         南方の押さへとして、
         先ず、岐阜へ帰り給ふ、   
                              (「勢州兵乱記」)

      そして、上洛へ。
      「いよいよ」、である。

      七月二十五日、義昭が、岐阜郊外の立政寺に到着した。

       永禄十一年七月廿五日、
       越前(一乗谷)へ御迎へのため、
       和田伊賀守・不破河内守・村井民部・島田所之助を進上なされ、
       濃州西庄、立正(政)寺に至りて、公方様御成り。

       末席に鳥日千貫積ませられ、
       御太刀・御鎧・武具・御馬、色々、進上申され、
       其の外、諸侯の御衆、是れ又、御馳走斜ならず。
       此の上は、片時も御入洛御急ぎあるべきと、おぼしめし、
                          【重史135】(『信長公記』)

      【参照】6信長との出会い 第30~43話  小
          2美濃立政寺 第31~33話  小
           ✓ 第31話

      信長は、京へ向けて出陣した。
      九月七日、尾張・美濃・伊勢(北伊勢衆)・三(三河衆)、四ヶ国の大軍勢を
      引き連れて。

       九月七日に、公方様へ御暇を申され、
       江州、一篇に討ち果たし、御迎へを進上すべきの旨、仰せ上げられ
    、
       尾・濃・勢・三、四ヶ国の軍兵を引卒し、

       九月七日に打立ち、平尾村御陣取り。
                          【重史136】(『信長公記』)

      【参照】6信長との出会い 第30~43話  小
          3上洛 第34~38話  小
           ✓ 第34話


     【引用】 そ第11話㉓



     ⇒ 次へつづく

     
     
    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

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