メインコンテンツへスキップ
見出し画像

本能寺の変1582 【重史195】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    【重史195】 「天王寺屋会記」

    はじめに ←目次  
    ←【 重要史料 】 【全】 【 重史一覧 】 【四国】 八 九 十 ←  
    →重要 ◎目次 
    →重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次 
    →テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次 
    →【シリーズ】
     信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5 
    →その一因 目次大 概説大 目次中 →
     1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
     4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
     3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
    →見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
    →【人物】 【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
    →【ここがポイント!!】
    *◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
     信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
    *加筆修正 

    【重史195】

    二月六日朝、 三好山城殿 一人

                        「天王寺屋会記」自


     天正九年1581、二月六日。            158100206

     三好康長が、堺の天王寺屋(津田宗及)を訪ねた。
     すなわち、まだ、渡海前。              →【重史192】
     「そろそろ」、なのだろう。
     となれば、当然、話は、四国のことになる。

      同二月六日、朝、     三好山城殿 一人

      一、床、袋に香合・香炉、たゝみ(畳)に直に置き候なり、
      一、炉に、うば口(姥口釜)、釣りて、但し、拝領の自在に、
      一、手水間に、香炉・香合、長盆にすへ(据え)申し候
                   香炉の袋ぬがせ申し候、
      一、ぜんかう茶碗 備前水下 いもがしら水指
         茶の前に香炉・香合見せ申し候、即ち、宗及床へ上げ候、
                            (「天王寺屋会記」自)

     三好康長は、河内の南半国守護。
     高屋城を居城にしていた(大阪府羽曳野市古市)。
     堺とは、きわめて近い距離にある。
     直線で、凡そ三里余り13km。
     往来し易い位置関係にあった。
     津田宗及の天王寺屋は、堺にある。
     また、松井友閑は、堺の代官。
     康長にとって、これは、有り難い。 


     【引用】

     【参照】【四国問題】
        
    天正八年1580
        天正九年1581
        天正十年1582



     ⇒ 次へつづく

     
     
    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

    あなたへのおすすめ