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本能寺の変1582 【重史208】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    【重史208】 「黒田家文書」

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     4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
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    *◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
     信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
    *加筆修正 

    【重史208】

    ①淡路へ渡海の儀、油断無き由、尤もに候、

    ②生甚、阿州へ相越すの旨に候条、

    ③其の方は、しちの城に在城候て、

    ④先々の儀、示し合わされ、行等の事、調儀専一に候、

                        「黒田家文書」


     天正九年1581、九月十六日。           158100916
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     黒田官兵衛は、淡路島へ渡海する準備が完了した。
     秀吉は、鳥取の陣中にいる。
     その南東、直線で、凡そ二十二里半90kmに姫路がある。
     官兵衛は、おそらく、姫路にいた。
     「油断無き由」、とある。
     準備は、完了した。

      書中、披見せしめ候、
      淡路へ渡海の儀、
      油断無き由、尤もに候、

     志知城は、阿波渡海の作戦司令部。
     黒田官兵衛は、その司令官である。

      生甚(生駒甚介親正)、阿州へ相越すの旨に候条(くだり)、
      其の方は、しち(志知)の城に在城候て、
      先々の儀、示し合わされ、
      行(てだて)等の事、調儀、専一に候、
      様子、追々、申し越さるべく候、
      恐々謹言、
            羽筑
      九月十六日  秀吉 (花押)
        黒田官兵衛尉殿
                            「黒田家文書」51


     【引用】

     【参照】【四国問題】
        
    天正八年1580
        天正九年1581
        天正十年1582



     ⇒ 次へつづく


     
     
    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

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