
境界の手前
私は境界線の前、意味の前に住んでいる。
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私は自然が好きだ。
自然が好きというより、人間と人工物以外のものが好きなのだと思う。
風は見返りを求めない。
鳥は人脈を作らない。
酵母は承認欲求を持たない。
非常に話が早い。
人間だけが妙に異常に面倒臭い。
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昔は人間を理解しようとしていた。
長いこと観察した。
感情も観察した。
怒りも観察した。
悲しみも観察した。
嫌悪も観察した。
観察しているうちに全てが変化し、全てが消えた。
感情というのは永遠の真実などではなく、発酵中の泡のようなものだった。
馬鹿らしいほど変化する。
ちなみに人間はその泡に人生を賭けている。
ご苦労なことである。ご愁傷さまである。
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二年ほど、このノートに断片を残している。
毎日ではない。
見えない日は書かない。
見えた日は書く。
三角有。
丸有。
白い四角。
灰色の場。
回転。
濃淡。
移動。
位置関係。
意味は後回し。
意味を急ぐと人間になってしまうからだ。
私は現象を先に見たい。
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主観でもなく客観でもない。
私はその境界の縁を見ている。
何かが意味になる前。
何かが名前になる前。
何かが固定される前。
そこに現れる気配。
線。
影。
膜。
結節点。
交差点。
私は交差点が好きなのではない。
交差点の手前が好きなのだ。
交差点に到着すると、すぐ誰かが看板を立ててしまう。
愛とか。
成功とか。
幸福とか。
人生とか。
それらは大抵ろくなものではない。
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人間社会は意味の量が多すぎる。
私はその濁流にあまり興味がない。
誰が正しいとか、
誰が評価されたとか、
誰が傷つけたとか、
誰が得したとか、
もう十分観察した。
大体予想通りだった。
だから人間の探究はかなり縮小した。
身近な人だけで充分である。
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むしろ鳥の方が圧倒的に興味がある。
片羽が折れたとて、二本足で歩き、
風向きが変われば向きを変える。
飛べるなら飛ぶ。
飛べないなら歩く。
言い訳もなければ自己演出もない。
実に簡潔だ。
人間なら三冊は自伝を書いている。
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私は穏やかに生きたい。
幸福になりたいわけではない。
成功したいわけでもない。
何者かになりたいわけでもない。
むしろ何者にもなりたくない。
自然のなかで風が吹く。
酵母が泡を吐き出す。
パン生地が変化する。
木々が揺れる。
それを見ている。
それだけで十分だ。

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然し、ときどき何かがまた現れる。
観察を終えて相殺したと思っていたものが、
形を変えて戻ってくる。
白い四角がグラデーションになったり、
境界が移動したり、
妙な構造物が再び現れたりする。
正直やめてほしい。
私は暇ではない。
だが、見てしまった以上は観察する。
観察してしまった以上は最後まで追う。
そして終わったら帰る。
誰の記憶にも残らず、
何の意味も残さず、
さっさと撤収する。
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そんな生活を続けているうちに、
いつのまにか複数の層が重なった。
働く私。
パンを焼く私。
税金を払う私。
酵母を育てる私。
境界を観察する私。
どれも本物だ。
どれも重要ではない。
ただ、私という肉体に現れているだけである。
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そして今日もまた、
世界は何事もなかったように変化している。
私はそれを記録する。
仕方なく。
本当に仕方なく。
だが、かなり真面目に。
観察者というのは案外そういうものらしい。
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私は境界線の前、意味の前に住んでいる。
と偉そうに書いてみたが、明日はスーパーで半額シールを追いかけている。


