291.奄美大島と伯母
先日、初めて奄美大島へ行ってきました。マングローブの森の中へカヌーで漕ぎ出して行ったり、珊瑚礁の海を生まれて初めてシュノーケルで覗くという体験もしました。色とりどりの珊瑚の上を、これまた色とりどりの熱帯魚が泳いでいました。これまで映像でしか知らなかった海の中の景色が実在するのだと大感激しました。
奄美大島の大自然や人の温かさがこれほど素晴らしいところだとは、私はこれまで知らずにいました。これほどの自然に触れて、世界自然遺産に登録されるという意味がよくわかりました。地元の方々も、奄美大島の魅力に惹かれて移住したという方々も、みなさん実に親切で、フレンドリーというのはこういう方々のためにある言葉だと感激しました。
どうしてこれまで奄美大島に来なかったのかと自問自答が続きました。もっと早くから、何度も来ればよかったと思いました。
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実は私の父の姉、つまり私の伯母は奄美大島に嫁いでいました。1920(大正9)年生まれの伯母には二人の娘がいて、下の娘、つまり私の従姉は、私が小学生の頃からよく我が家に遊びに来たり、泊まりに来たりしていました。名を聡子さん(仮名)と言いました。
初めて会った時、聡子さんは看護婦さんの卵でした。なんでも病院の寮に住み込みながら准看護婦になる勉強をするのだということでした。父は姪っ子にあたる聡子さんの東京の身元引受人だったようで、入学や引越しの手続きを終えた聡子さんをうちに連れてきたのでした。その頃、私は小学2年生前後だったと思います。
聡子さんは明るくて、華やかな美人でした。初対面の時からざっくばらんに私の母にも「おばさん、おばさん」と話しかけ、私と弟にもおもしろい話をたくさんしてくれて、歓迎のご馳走が並んだ食卓を笑いに包みました。当時の私には大人に見えた聡子さんでしたが、今思えばあの時の聡子さんは、中学を卒業して上京したばかりの16歳の少女でした。
その後も聡子さんは、年に数回は家に遊びに来てくれました。私や弟が好きそうなお菓子を持ってきてくれたり、病院のお医者さんのおもしろい失敗談をしてくれたりして、聡子さんが来る度、我が家はいつも賑やかになりました。帰りは父が病院の寮まで送っていきました。
ある時、聡子さんはボーイフレンドを連れてきました。無口な青年でした。聡子さんが私たち一家を大笑いさせている間も、隅っこで一人はにかんでいました。私はこの二人が二人きりでいる時、ちゃんと会話が成り立つかどうか密かに心配していました。それほど無口でした。その日は「彼氏の車で来ているので、おじさん、送ってくれなくても大丈夫よ」と言いました。
それからしばらく経ったある日、聡子さんが私を病院の寮に泊めてくれることになりました。私は初めて親から離れてひとりでお泊まりすることになりました。うちでみんなで夕食をとった後ボーイフレンドの車に私も一緒に乗り込みました。聡子さんは助手席、私は後部座席でした。ラジオからいしだあゆみの「ブルー・ライト・ヨコハマ」が流れていたことを覚えています。
無口なボーイフレンドは、車に乗り込んだら「低音の魅力」という声で聡子さんに話しかけ、なんだか頼もしい人物に変身しました。
聡子さんの部屋は、病院の隣にある寮の一室で、6畳くらいの和室でした。すっきりした部屋で、ひとつの布団で一緒に寝ました。もしかしたら正式に准看護婦さんになった記念だったかもしれません。
聡子さんは私のことをとても可愛がってくれました。当時、私は、父が聡子さんのことをとても可愛がっていたから、そのお礼に私のことを可愛がってくれているんだろうなと思っていました。実際、父は聡子さんがいない時でもよく「聡子が、聡子に」と気にかけていました。
病院の寮に泊めてもらった翌日だったのか、それとも別の日だったのか記憶が曖昧ですが、聡子さんに新宿の厚生年金会館での美川憲一ショーに連れて行ってもらったことがありました。なぜ私を?という気持ちと、聡子さんが美川憲一のファンだということに驚きました。座席も前の方の良い席で、同じ列にはピーター(のちの池畑慎之介)も来ていて、あ、この二人似ていると思いました。
帰り道、タクシーの窓からオノ・ヨーコのコンサートの立て看板が見えたこともよく覚えています。もしかしたら、こちらが厚生年金会館だったかもしれません。私が小学校3年生か4年生、つまり1968(昭和43)年か1969(昭和44)年の思い出です。
その後も、聡子さんは時々うちに遊びに来てくれました。成人式の時には、美しい振袖姿で来てくれました。父も母も大喜びしていました。
しばらくして、聡子さんはあの無口な、でも二人きりになると頼もしい青年と結婚しました。両親は結婚式に出かけて行って、白無垢姿の聡子さんの写真を見せてくれました。本当に美しい花嫁さんでした。
私が高校生の頃、奄美大島の伯母が我が家に泊まりにきたことがありました。もしかすると、それは聡子さんの結婚式への参列の時だったかもしれません。それとも別の機会だったのでしょうか。
父が張り切って伯母さんを皇居に案内したことを覚えています。二重橋の前で撮った写真がありました。私は他にいくらでも楽しいところはあるのに、なぜ皇居なのかと不思議でした。伯母さんは丸顔で、常に顔に笑顔が張り付いているような人でした。父とはあんまり似ていないけれど、父の弟の九州の叔父さんにちょっと似ていると思いました。始終ニコニコしていました。
母方の祖父母が大阪から我が家に引っ越してきたのは、私が大学生になってからのことでした。聡子さんが二人目の赤ちゃんを連れて我が家に遊びにきてくれた時に、祖母が座布団の上に斜めに寝かされた赤ちゃんを眺めながら、なんとも幸せそうな表情をしていたことが忘れられません。私からみれば母方の祖母と父方の従姉の子という関係でした。
二人の子どもが生まれてからは、聡子さんは昔ほど頻繁にはやってきませんでしたが、それでも数年に一度は我が家にやってきては、みんなを笑いの渦に包みました。気前のいい人で、みんなの好みを覚えていて、いつも喜ばれるおみやげを持ってきてくれたことが印象に残っています。
ある時、母が友人と一緒に奄美大島ツアーに参加して、初めて奄美大島を訪れました。その時、奄美大島のホテルから伯母の家に電話をしたら、すぐにご夫婦で車に乗って飛んで来てくれたと母は大感激していました。その車でご自宅に案内してくれて、なにもないけれどと言いながら、ご夫婦で最大級のもてなしをしてくれたそうです。
そういえば、その時一緒に出かけた母の友人は、大島紬の着物を二百万円分も買ったということを聞いて驚きました。普段から着物を着ていることの多い方でしたが、そんなにお金持ちだったのかとびっくりしました。
子どもたちが大きくなるにつれて、聡子さんは時々奄美大島に里帰りをするようになりました。「とうちゃんが亡くなった後、かあちゃんが心配だから、同級生にたぁくさんお土産持って行って、かあちゃんのことをよーくお願いしているんだよ」と言っていました。
多分、その頃だったと思いますが、聡子さんは若い頃から両親に仕送りを続けていて、郵便局の貯金だと、こちらからは貯金通帳で入金すれば、かあちゃんはキャッシュカードでお金を引き出せるからとっても便利だと教えてくれたこともありました。
21世紀になって、私の父が肺がんを宣告され余命いくばくもないという頃、連日のようにお見舞いに来てくれました。聡子さんは大阪にいるお姉さんの元子さん(仮名です)にも声をかけてくれて、姉妹で来てくれたこともありました。
私はこの時、もう一人の従姉の元子さんに初めて会ったのですが、自分とよく似ていてびっくりしました。元子さんも大阪で長年看護婦さんをしていました。二人とも子どもの手が離れた頃から、またフルタイムの看護婦に、いえ、もうこの頃には「看護師」に復帰していました。
さすがにプロの看護師だけあって、呼吸が安定しているからまだ大丈夫よとか、そろそろ九州の叔父さんを呼んだ方がいいとか、的確なアドバイスをしてくれました。危篤で病院に詰めている私たち家族に軽食を持ってきてくれるなど、機転が利く上、こまごまとした心配りをしてくれました。
父の葬儀の際も、縁の下の力持ちとして働いてくれました。徹底的に裏方に回り、訪問客が困らないようにさまざまな配慮をしてくれました。
そんな聡子さんが発した一言を、私は今も忘れないでいます。あれは、聡子さんが元子さんと連れ立って新婚の私の家へ遊びに来てくれた時のことでした。居間で夫と四人でよもやま話に花を咲かせていた時に、どういう話の流れだったのか、聡子さんが「私は人からバカにされないように頑張って生きてきた」と言ったのです。
私はそれまでの自分の人生を振り返って、「誰かにバカにされないように」と思って生きてきたことは一度もなかったように思いました。
聡子さんは子どもの頃から接してきましたが、いつも明るく賑やかで、常に人の輪の中心にいて、細やかな心配りを忘れず、みんなに愛される人柄でした。彼女は唇を少しすぼめるようなお澄まし顔をして人の話をよく聞き、そして自分の意見をはっきりと述べ、最後に必ず笑いが弾けるような一言を添える人でした。
その聡子さんがどうしてあのような一言を発したのか、謎でした。そして、その一言は長く私の心に残り続けました。
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父が亡くなって大分経った頃、なにがきっかけだったか、母と父の思い出話をしていた時に「もしも戦時中に満州で父親が病死しなければ、姉を奄美大島に嫁がせることはなかっただろう」と父が言っていたと母は語りました。
さらに母は、父の姉が奄美大島に嫁いだことを、自分が父と結婚するまで知らなかったとも話していました。母によれば、亡くなる前に父は、自分の姉が奄美大島に嫁いだとは、当時、恥ずかしくて言えなかったと言ったのだそうです。
父は、姉、兄、父、妹、弟、弟、妹、の七人きょうだいでした。一番上のお姉さんが聡子さんのお母さん、つまり私の伯母です。戦争中、きょうだいの父親、つまり私の祖父は満州にいました。銀行員でした。家族の中で姉とすぐ下の妹が父親と共に満州で暮らしていました。
一方、祖母は父の兄が肺結核になってしまったので、内地に戻って看病しており、家族は満州と九州で分かれて暮らしていたそうです。父はその頃、大阪で大学生、弟二人は九州で母と暮らしながらまだ学校に通っており、一番下の妹は夭折していました。
戦争中に祖父は満州で病死しました。銀行の休職期間を過ぎても治らず、銀行を退職してから亡くなったそうです。終戦後、残された父の姉と妹は二人きりで引き揚げてこなくてはならなくなりました。ところが、お姉さん、つまり聡子さんのお母さんは、満州で赤痢に罹ってしまい隔離されてしまったのだそうです。
父の妹、つまり叔母から、ずっと後になって私が直接聞いた話では、奉天にあった麒麟麦酒の工場に赤痢患者が隔離されていたということでした。伯母も工場内に隔離された時、妹である叔母は、このままでは日本に引き揚げることもできず間違いなくこの地で死んでしまう、それならばなんとしても工場に忍び込んで姉を探し出し、救い出そうと決死の覚悟をしたそうです。
この時伯母は24歳、叔母は18歳でした。叔母は患者を隔離している工場の床に転がされているままの患者の顔を一人ひとり覗き込んで、伯母を探したと言います。もう息絶えている人もいる中を、何人も、何十人もの顔を覗き込み、ついに姉を見つけ出します。
ここにいては死ぬしかない、とにかく脱出しようと伯母を半ば背負うようにして工場の出入り口をすり抜けたそうです。
引き揚げの話を聞かなくなって久しくなりました。私が子どもの頃には、引揚者が死線を彷徨い、筆舌に尽くしがたい苦難を乗り越えて、ようやく日本に引き揚げてからも辛酸を舐めたという話をよく見聞きしたものでした。
父から母へ、そして私へのまた聞きになりますが、この脱出事件のあとの引揚げの際、姉妹の命の恩人になったのが奄美大島出身の男性で、伯母はその方と結婚したということでした。
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今回の旅の最終日に、私は奄美博物館へ出かけました。博物館は3階に分けて、1階は「黒潮に育まれた奄美」、2階は「境界の歴史に育まれた奄美」、3階は「亜熱帯雨林に育まれた奄美」の展示がありました。
この博物館で知ったことの多くは、これまで大人たちの会話を耳にはしていただけで、あまり深く考えずに生きてきた私には衝撃的な内容でした。
特に、2階の「境界の歴史」についての展示品や映像に触れて、私は今まで本当に何も知らずに生きてきたのだと感じました。そこには15世紀頃からは琉球王国の影響下に置かれ、1609年の薩摩藩による琉球侵攻後は薩摩藩の支配下に、さらに太平洋戦争終戦後も1953(昭和28)年まで米国軍政府統治下にあった奄美群島の歴史が詳しく説明されていました。
一般社団法人あまみ大島観光物産連盟の運営サイト「あまみの、」には、次のような一節があります。
1609年、薩摩藩は琉球を征討し、以後奄美は薩摩藩の領土となりました。1830年に藩の財政立て直しため、黒糖は藩が総買い上げする制度が始まると、サトウキビ栽培のプランテーション化は、奄美群島全域で著しく進行していくことになります。
明治維新を主導した「薩長土肥」の中でも、薩摩藩が果たした役割は際立つものがあります。その薩摩藩財政において、奄美群島で生産された黒糖が果たした役割の大きさは、認識しておかなければならないところです。
1745年の換糖上納令によって年貢を米ではなく黒糖で納める制度が導入され、1830年以降の惣買入制によって藩による黒糖の独占的な買い入れがさらに強化されたといいます。
私はこれまで明治維新の際の圧倒的な軍事力を持つ薩摩藩の働きを表面的にしか見ておらず、その背景に「黒糖地獄」と呼ばれた奄美大島におけるサトウキビの強制栽培や、黒糖の専売による過酷な支配、そして飢餓に苦しんだ人々の歴史があったことは、思いもよりませんでした。
また、奄美大島は西郷隆盛や薩摩藩上級武士の名越左源太の遠島処分の地として知られていますが、流刑地とされた歴史もまた、奄美の人々に対する本土側の偏見や差別を生む一因になったのかもしれません。幕藩体制から明治維新を経ても迷信や偏見がにわかに消えることはなかったと思われます。
父は鹿児島県の出身ではありませんが、九州で生まれ育ったので、奄美大島の人々が何世紀にもわたる長い歴史の中で、琉球や薩摩藩に支配され、本土復帰も遅れて経済的にも苦しんだことを知っていたのでしょう。
博物館の戦後コーナーには「日本復帰断食祈願」と大書された古い幟や「奄美大島復帰署名運動」と書かれた襷が展示されていました。本土へ行くための身分証明書(パスポート)もありました。奄美群島は1953(昭和28)年に悲願の日本復帰が叶うまでの約8年間、米国の軍政下に置かれていました。先に紹介した「あまみの、」には次のように説明されています。
1951(昭和26)年のサンフランシスコ平和条約締結後も返還されず、本土との分離により、経済が疲弊し飢餓の兆候さえ出てきた島民は密航などにより物資を手に入れるしか、他に方法がありませんでした。
分離直後から始まっていた奄美群島祖国復帰運動は激しさを増し、日本復帰を願う署名は14歳以上の住民の99.8%に達し、ガンディーの運動を真似て集落または自治体単位でハンガーストライキが行われました。
元子さんや聡子さんが生まれた頃は、まだ米軍占領下でした。
祖父が病のために銀行を休職、退職し、さらに客死してしまったため、父の一家は経済的に困窮したそうです。父とすぐ下の弟は、終戦直後に来た台風によって海岸線に打ち倒された松の木を積み上げて燃やし、海の水を焚いて塩を作り、それを売り歩いて当座のお金を稼いだと言っていました。終戦時の年齢は、父は20歳、弟は16歳でした。
父は戦中戦後に自分自身が困窮を経験していたからこそ、姉の境遇を複雑な思いで見つめ、その苦難を受け止められなかったのかもしれません。そのため結婚前の母には、姉が奄美大島に嫁いだことを伝えられなかったのではないかと私は想像しています。
さて、博物館には展示物だけではなく、様々な映像もありました。その中には、集落の人々が輪になって祈りを捧げたり、太鼓に合わせて踊ったりする伝統行事の映像もありました。平瀬マンカイ、ショチョガマにみられる海の彼方の神々への豊作祈願、そして八月踊りなど集落の人々が歌い踊る祈りは初めて見るのになぜか懐かしく、心に染み入るようでした。
伯母の嫁いだ集落にはどのような伝統行事があったのでしょうか。島の風習を知らずによそから嫁いできた伯母は、最初さぞ戸惑ったことと思います。それとも、あの持ち前の明るさと笑顔で、少しずつ島の暮らしに馴染んでいったのでしょうか。
また、博物館には独特の奄美言葉も数多く紹介されていました。推測できるものもあるけれど、まるっきり理解できそうもない表現もたくさんありました。
『死の棘』の作者である島尾敏雄の夫人、島尾ミホは、奄美大島に隣接する加計呂麻島の出身です。1919(大正8)年生まれですから、1920(大正9)年生まれの伯母と同世代です。今回の旅のお供に持参した彼女の『海辺の生と死』は田村俊子賞を受賞した名著ですが、そこに祭りの描写と、生き生きとした方言がいくつも紹介されています。
ドンドンドン、ドンドンドン、強い太鼓の音にあわせた調子の高い女の人たちの掛け合いの歌の歌声と、それに負けじと張り上げる男たちのかえしの声が競い合って集落の秋の夜空へひびきあがり、晴着を着た老人も子供も男も女も、広場いっぱいに円陣をつくり歌にあわせて手を振り身をくねらせ両の足で調子をとりつつ、「遊びの日」の踊りに湧きかえっていました。その人の輪に揉まれよろめきながら小さな私も見様見真似で手や足をうごかし一所懸命に踊りそして歌いました。
トゥモチヌヒ(トゥムチの日) ウムケショーティ(お迎えしまして) グショ(後生)ヌ(の)ウヤフジガナシトゥ(御先祖さまと) ウドゥリ(踊り)クラブェ(競べ) ウヤフジガナシヌンキャン(御先祖さま方に) メヘラングトゥ(負けぬよう) ワァキャヤ(われわれは) ウレ(それ) エイトウドゥロ(一所懸命踊ろう)
伯母は、嫁ぎ先の言葉を理解することはできたのでしょうか。この本の中には、「アンチュウクサ、ニンギントゥシ、ウマレカハヌ、チュウダロヤー」が「あの人こそ、人間としての、立派な生まれに極まりの、人でありましょう」という意味であるとか、「ヨーリッグヮシュールィ」が「だまっておいで」という意味だとも書かれていました。伯母の苦労がしのばれます。
父が心配したとおり、伯母は引揚者として島へ嫁ぎ、経済的にも苦労したに違いありません。さらに子どもの教育についても、1965(昭和40)年の全国の高校進学率は70%でしたが、奄美群島では鹿児島県本土の水準(約60%)を大きく下回り、おおよそ50%程度でした(参考:関西大学 山口覚教授「奄美群島からの集団就職」【第2図】 地理科学 vol.80 no.2 pp58-82, 2025)
私の父方のいとこは、私を含めて7人いますが、元子さんと聡子さんを除く5人は男女とも全員大学へ進学しました。奉天の麒麟麦酒工場から伯母を救い出した叔母の子どもは医師になりました。しかし奄美大島出身の元子さんは大阪で、聡子さんは東京で、中学卒業後すぐに准看護婦になるために働きながら勉強をして、ふるさとへも仕送りを続けたのでした。
二人が高校へ進学しなかったのは、地域の経済状況、教育機会の違いだけでなく、もしかしたら、本人の希望や家族の事情もあったのかもしれません。それでも「人からバカにされないように頑張って生きてきた」という、聡子さんにはあまりにもそぐわないあのひと言の背景には、当時の東京で地方出身の中卒の少女が生きていく厳しさがあったのではないかと思います。
戦後の奄美大島の中学卒業後の進路について調べていたら、大島紬の家業についた方々の話にいくつか触れました。大島紬は高度経済成長期に一大ブームを巻き起こし、生産量は1972年にピークを迎え、紬で子どもを進学させたという話もあちこちで読みました。私は母の友人が購入した二百万円の大島紬を思い出しました。
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今回、奄美大島に行ったのは、知人がこのところ立て続けに三回も奄美大島を訪れていて、それほど素晴らしいところなら、ちょっと私も行ってみようかと思ったのがきっかけでした。そういえば、奄美大島といえば聡子さんの出身地なのに行ってみようと思ったことはなかったと感じました。
今回の奄美大島旅行は、毎日が充実していました。美しい珊瑚礁に囲まれた大自然いっぱいの奄美大島をレンタカーであちこち訪ねました。冒頭にも書きましたが、満潮時を狙ってマングローブの森へ漕ぎ出したカヌーは、初心者でもすぐに慣れました。シュノーケルで覗いた海の底の美しさは生涯忘れることはないでしょう。
しかし、今回の旅行は、子どもの頃からの記憶が走馬灯のように駆け巡る旅行になりました。
私の家には父がまだ幼い頃の写真がたくさん残っています。満州のお屋敷で、弁髪の使用人たちに囲まれて、可愛らしいワンピースに身を包んだ女の子や、レースの靴下に革靴を履かされた幼い少年たちが写っています。幼い頃の父一家の写真でした。
あそこに写っていたあのつぶらな瞳の幼女の運命を思うと、なんとも言葉が見つかりません。経済的に困窮し、言葉も風習も違う島での生活でどれほど苦労を重ねることになったのでしょうか。
けれども、私の母が島に旅行に来てくれたと聞いて、すぐに車で飛んで行って自宅へ案内してくれる優しい夫を伴侶にし、二人の娘は看護師として経済的に自立し、長年欠かさずに仕送りを続けたのです。あの笑顔を思い浮かべると、きっと幸せな人生であったことと信じたいと思います。
伯母は97歳まで生き、天寿を全うしました。結核で療養していた父の兄は24歳の若さで世を去りました。父は当時の男性の平均寿命に近い78歳で亡くなりました。伯母を救い出した叔母も96歳まで長生きしました。父と一緒に海の水を焚いて塩を作った叔父は大出世して、勲章まで貰って平均寿命を超えて長生きしました。下の叔父は船乗りになって世界中をまわっていましたが、60代で亡くなりました。末の妹は学校へ上がる前に亡くなりました。
最後になりましたが、元子さんも聡子さんも、お元気でお過ごしです。私はこれからは、毎年のように、あのエメラルドグリーンの海に囲まれた美しい奄美大島へ行こうと決意しています。