
2610 四国旅 後編 雨空と、ふたつの晩ご飯
十月二十三日。四万十の朝は、雲に覆われていた。
昨日、四国カルストに広がっていた青空は、どこかへ行ってしまった。今にも降り出しそうな空の下で、私はあの人を待っていた。
昨夜は、美味しい魚とお酒をたっぷり楽しみ、ふらふらしながら私の写真まで撮っていたあの人。それでも朝になると、ちゃんと荷物を持って現れた。
……あら。ちゃんと起きられたのね。
今日は足摺岬へ向かい、それから四国の西側を回って北へ進む予定だ。私はエンジンを目覚めさせ、四万十の町を走り出した。
*
足摺岬へ向かう道には、気持ちよく曲がれそうなカーブもあった。ただ、道路脇には家や集落があり、あの人は控えめにアクセルを踏んでいた。
岬の手前では、木々が道路をすっぽり包み込んだ。曲がりくねった枝が頭上で重なり、昼間なのに薄暗い。
……この先、ちゃんと普通の世界につながってるよね?
その先で待っていたのは異世界ではなく、工事のフェンスだった。
展望台まではもちろん行けず、ジョン万次郎の銅像にも正面から近づけない。フェンスの一部が透明になっていて、その向こうに横からの姿だけが見えた。
……万次郎さん、今日は横顔だけしか見せてくれないのね。

代わりに、あの人は木々のトンネルを抜け、灯台へ向かった。黒い岩に波が砕け、その周りだけ海が明るい青に透けている。曇り空でも、思わず足を止めたくなる色だった。
晴れたら、もっときれいなんだろう。
あの人は朝からいい運動になったと、満足そうに戻ってきた。

足摺岬をあとにした私たちは、海沿いのカーブをいくつも抜けて、四国西岸を北へ走った。
柏島では、雨がぽつぽつと落ち始めていた。それでも港の水は澄んだ青緑色で、底の石まで見えていた。あの人は橋から海を眺め、近くの観音岩へもひと登り。
……よく歩いたし、お昼ごはんは大盛りにする?


海沿いの国道では、前のクルマに合わせてゆっくり走ることもあった。道が空くと、私もようやく気持ちよくカーブを抜けられた。
宿毛に入るころには、ちょうどお昼どきだった。私を停め、スマホで店を探し始める。ほどなくして、良さそうな海鮮料理の店が見つかった。
店内には、焼けた醤油の香ばしい匂いが漂っていた。テーブルのコンロで浜焼きも楽しめるようだけれど、今日はそこまでゆっくりしていられない。あの人は、生姜真鯛の丼を選んだ。
厚みのある鯛の身に、ごまだれ。薬味や卵ものった丼を前に、あの人は箸を取った。
鯛をひと切れ口に運ぶ、身にしっかり歯応えがある。最近は、旨みを楽しむ代わりに身の柔らかい魚を出されることが多かったという。それも好みの話だけれど、今日のあの人が食べたかったのは、こういうしっかり歯応えの新鮮な魚だった。
……食べるものには、いろいろあるんだね。
私はハイオクガソリン一択。それで気持ちよく走れるんだから、迷わなくて気楽なものだ。

あの人が昼食を終えると、私たちは近くの旧フェリー乗り場へ寄った。
少し寂しくなった町の道を進むと、船へクルマを載せるための設備が残っていた。
赤みを帯びた鉄骨と、使われなくなったランプウェイ。旅客通路の青いテント屋根は破れ、白い柵にはつる草が絡んでいた。船は、いなかった。
あの人は私をランプウェイの前に停めた。ここから出るフェリーに、一度乗ってみたかったのだという。
私は、目の前の坂道を眺めていた。
乗船を待つクルマの列。甲板から響く作業の音。係員の合図で、一台ずつランプを上っていく。私には、お馴染みの光景だ。ここにも、そんな時間があったんだろう。
また船が来る日を待っているのか。片づけることもできずに、残されているのか。あの人にも、私にも分からない。
ただ、働くために作られたものが、働けないままそこにあるのは、寂しかった。
私も少し前まで、ブレーキパッドを待って長いこと停められていた。走れる身体があるのに、走れない。あの時間のことを、ふと思い出した。
走りすぎだと思う日もあった。もう少し道を選んでほしいと思うこともあった。それでも今日は、あの人を乗せて、ここまで来た。
……たくさん使ってもらえるのは、幸せなんだろうな。


雨の中を北へ進み、道の駅津島熱田温泉に休憩で寄った。
コーヒーを飲み終えたあの人は、売り場に並ぶ地元の米を見つけた。説明を読み比べ、自宅の米がなくなりそうだったこともあって、一袋買って戻ってきた。
……主食を確保だね。次はおかず?
さらに国道三百七十八号を走る。
夕焼けこやけラインという、楽しそうな名前の道だけれど、今日は海も空も雨に煙っていた。
その先の長浜で、あの人は二軒の菓子店へ寄った。玉井菓子舗と、稲田菓子舗。どちらも、閉店間際になんとか間に合った。
目当ては、長浜志ぐれ。以前に食べて気に入り、近くへ来たら必ず買って帰りたいものなのだという。
ただ、賞味期限が短い。一度にたくさん買い込むわけにはいかないから、こうして来られる機会が大切だった。
雨の町で、店の窓には暖かな明かりがともっていた。その前で待っていると、あの人が買い物を終えて戻ってくる。
……おかずを飛ばして、もうおやつ?
五年ぶりくらいになる志ぐれ。二軒の味にはそれぞれ個性があり、どちらも美味しいのだそうだ。
お昼には、私はハイオク一択で迷わなくて気楽だと思った。でも、二軒も回って志ぐれを買ったあの人が、あんまり嬉しそうなものだから、ちょっとうらやましくなった。
……私にもお気に入りのスタンドがあったら、わざわざ寄ってくれるのかな?


日が暮れ、雨はさらに強くなった。
海沿いの景色も見えなくなり、あの人は迷わず高速道路に入った。
本当なら、明日はフェリーで九州へ渡る予定だった。でも、台風が近づいている。旅を続けるより、今夜の船で大阪へ帰ることにした。残念だけれど、帰れるうちに帰る。
……うん。それは、私も賛成。
ところが、東予港へ向かっていたはずなのに、あの人はその先へ進んだ。船まではまだ時間があるので、前回は寄れなかった店へ行くのだという。
港を通り越して二十五キロ。
往復なら、五十キロ。
……そんなに楽しみなのなら、付き合ってあげる。
向かったのは、白楽天というお店。夜の店内には、地元の人らしいお客さんが大勢いた。あの人が食べたかったのは、焼豚玉子飯だ。
ご飯に甘辛い焼豚。その上に目玉焼き。もともとは賄い飯だったという、名前のとおりの料理だった。
窓の外は相変わらずの雨。夕焼けは見られなかったけれど、あの人はようやく、前から食べたかった一杯にありつけた。目玉焼きにレンゲを入れる顔が、なんとも嬉しそうだ。地元の人が普段の食事に来るような店の中で、あの人も満足そうに食べていた。
……そんなにおいしそうに食べるんだもん。遠回りして良かったね。


東予港へ戻ったころ、雨は一段と激しくなっていた。
いつもなら船を背景に私の写真を撮るのだけれど、今夜はそんな余裕もない。手続きを済ませ、そのままオレンジフェリーへ乗り込んだ。
雨に濡れた港から、明るい車両甲板へ。屋根の下に入ると、車体をたたいていた雨の音が遠のいた。
私は、周囲のクルマから少し離れた、ゆったりしたスペースへ案内してもらえた。何かと気を遣うクルマだと思われているのかもしれない。理由はともかく、私は安心してエンジンを止めた。

荷物を置いたあの人は、船内のレストランへ向かった。
……あれ? 晩ご飯、さっき食べたよね?
でも、この船にも、あの人の好きなものがあった。それは、宇和島鯛めし。
鯛の刺身に、卵とたれ。それをご飯と一緒に食べる。
宇和島鯛めしを食べられる店は他にもたくさんあるけれど、あの人はこのオレンジフェリーの鯛めしを気に入っていた。
今夜、二度目の晩ご飯。
満腹になったあの人は、ようやく広い部屋で休むことになった。
……五十キロ走って食べたあれは、前菜だったのか。


車両甲板でエンジンを止めていると、クルマを誘導する声が響いてきた。
昼間の宿毛では、誰も渡らないランプウェイを、あの人と眺めていた。あの静かな港にも、こんな声が響いていたんだろうな。
ブレーキパッドを待っていたころは、また走り出せる日が、ずいぶん先のことに思えた。
その私が、あの人と二日で約千キロも走った。雨の中、晩ご飯のために遠回りもした。私の中には、お米と志ぐれまで積んである。そして今はこうして、帰りの船でひと休みしている。
この二日間、またあの人と旅ができたことが、しみじみ嬉しかった。
ふと、朝に見た足摺岬の海が浮かんだ。曇り空の下でも、あんなに青かった。晴れたら、どんな色だろう。
……次は晴れた日に来ようね。海沿いのカーブをもう一度走りたいから
