
「百人一首を旅しよう!」短歌と写真で今と繋がる〜第二十回●右近●〜
第二十回目を迎えた今回ご紹介するのは、醍醐天皇皇后穏子の女房だった右近(生没年不詳)です。
元良親王、藤原敦忠・朝忠などなど数多くの恋愛遍歴を重ねた彼女もまた、第三回で取り上げた和泉式部同様、情熱的な歌を詠みました。
忘らるる 身をば思はず 誓ひてし
人の命の 惜しくもあるかな

意味)忘れられる私のことはどうでもいいです。しかし、私との愛を神に誓った貴方の命が、神罰となって降り掛からないか、それだけが惜しく思います。
ここでいう人とは「貴方」そのもの。当時、命を懸けて神に愛を誓うことは珍しくなく、もし誓いを破ったら罰として命を落とすこともあると考えられていました。

ちなみに、日々の暮らしや死の間際など多くの場面で当時の人々は頻繁に仏に祈りを捧げていますが、これは「神仏習合」という日本独自の宗教観によるもので、同時に信仰することが当たり前でした。
仏教は死後の救済、来世、悟りなどを担当し、神道は現世利益、子孫繁栄、恋愛成就などを担ったそうです。

現代では「神に愛を誓う」とはちょっと重い表現ですが、当時の貴族男性が女性に贈る和歌に織り込むのはわりと普通だったみたいです。まあ、一夫一婦制ではない時代ですし、そこはさらっと流しましょう。
しかし右近は多彩な恋愛経験を持ちつつも純情な一面を表します。
自分の身はどうなろうとかまわないけど、約束を破った貴方に神罰が下らないか心配だわ、と。本当は未練たっぷりの強がりさんなことが伝わってきます。
悲しいことに、この歌を贈った相手・藤原敦忠からの返事はなく彼は37歳という若さで亡くなってしまいました。
前回・第十九回で記したように、平均寿命は当時の貴族男性で33歳前後、女性27歳前後。一部の研究では、上流貴族で60歳前後、女性で50歳前後とされています。
敦忠は左大臣の息子で琵琶の名手、そしてイケメンというモテ要素たっぷりの男性。右近の他にも泣かされた女性は多かったことでしょうね。未来ある若い人の死はいつの世も哀しいものです。
同じくモテ女の右近ですから、既に次のお相手がいたと思いますが、かつての恋人の死を知った時はどんな気持ちになったでしょうか。
では最後にもりやま作を。
忘るるも 我は嘆かじ 夢のあと
光りて残る 幸(さち)のみをこそ

意味)たとえ貴方に忘れられても嘆きません。貴方が触れた夢のあとのようなこの身から、貴方の幸せだけが光って残るなら、それだけでいいのです。
最後までお読みいただきありがとうございました。次回も「失恋」の歌をとりあげます。
どうぞお楽しみに!!
第三回・和泉式部と第十九回・藤原興風は下記よりご覧いただけます⤵︎