
「百人一首を旅しよう!」短歌と写真で今と繋がる〜第十五回●皇太后宮大夫俊成●〜
世の中を詠む歌は「述懐歌」に分類され、もともと心に思うことを詠んでいたのが、次第に不遇の身を訴える歌へと変容していったものです。
百人一首の順に従うと、多くが後半に集中しています。鎌倉期、疫病・飢饉・天災が相次ぎ、第六回で紹介した崇徳院と鳥羽院の対立もありました。絶えぬ争いにより世情は不安定で、人々は無常を感じざるをえない時代を生きていたことが分かります。
今日取り上げる藤原俊成(1114〜1204)は百人一首の撰者・定家の父。御子左家(みこひだりけ)という歌の家を確立し、和歌界の大御所として君臨しました。後白河院の院宣により『千載集』を撰集。
あの平家物語にも重要な場面で登場する、歴史的人物です。どんな歌を詠んだのか。
世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る
山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる

意味)世の中に逃れる道などないのだな。一途に思い詰めて入ったこの山奥にも、鹿が悲しげに鳴いているのだから。
「思ひ入る」は思い詰めると、山に入るを掛けています。遁世したくて入った山なのに鹿が鳴いていて悲しみはやはり存在し、完全には逃れられないという諦念。鹿が鳴くという表現は寂しさ、悲しさを表します。
でもこの歌、俊成が27歳頃の一首。まだ若いのに自分を取り巻く世界の混乱から出家を考えていたようです。西行などの出家も影響を与えたとか。

結局出家は諦め、和歌を追究しました。この歌には失われゆく王朝文化への憧憬も秘められており、それは子の定家へと受け継がれることとなりました。
さて平家物語での俊成と言えば「忠度(ただのり)都落」。清盛の末弟・平忠度は都落ちの際、自ら俊成の元へ赴き自作歌の巻物を託しました。翌年に忠度は一ノ谷の戦いで戦死。二人の最後の交流は涙なくして読めません。

『千載集』では、朝敵となった彼の名は出さず、詠み人知らずとして歌を撰んでいます。63歳でようやく出家した俊成は、忠度から「一首でも撰んでくれたらあの世からお守りする」と言われた通り91歳の天寿を全うしました。
平家物語後半にあたるこの場面辺りから、平家贔屓の色が濃くなります。平氏がいかに都人として洗練された人々だったのか、そんな高雅な彼らをじわじわ追い詰めていく源氏の剛腕っぷりがこれでもかと描かれ、両者に等しく感情の波が染み透るように計算された展開が続きます。

今でこそ判官贔屓で義経哀れが主流のようになっていますが、源氏も平氏も血で血を洗う荒波の中で互いに政治的駆け引きをし、共に大きな犠牲を払いました。俊成はまさにその瞬間の目撃者だったのです。
そんな時代の波を感じつつ、もりやま作を。
うつし世や 染めゆく影よ 光なれ
なほ変はりなき 世は無常なる

意味)現世を染めていく影よ、光であっておくれ。世の中が無常なのは、いつの時代も変わりがないのだから。
最後までお読みいただきありがとうございました。前回・鎌倉右大臣と、第六回・崇徳院の記事は下記からご覧いただけます⤵︎
次回からは飛鳥・奈良時代の歌人を二人ご紹介します。百人一首はおよそ600年の時をまたぐ壮大な和歌集。少し原点に立ち返りましょう。どうぞお楽しみに!!