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ショートショート|壁の向こうの隣人|拝啓文芸部

    そのアパートの壁は、おそろしく薄かった。
    隣の住人のため息すら吸い取ってこちら側に吐き出すほどだった。

    二〇一号室の住人、三島にとって、それは最初、耐え難い苦痛だった。
    三島は小さな倉庫会社の伝票整理をして暮らしていた。昼間は薄暗い事務所の片隅で黙々と数字を打ち込み、夜は誰とも言葉を交わさずに帰宅する。会社でも私生活でも、彼の存在を気にとめる者はいなかった。まるで空気のように希薄な人生で彼もそれをそこまで卑下していなかった。

    隣の二〇二号室に新しい住人が越してきた。
    隣人は姿を見せなかった。ポストの表札は空欄のままで、朝夕の出勤時にもすれ違ったことがない。ただ、壁の向こうから規則正しい生活音だけが伝わってきた。
    朝七時に目覚まし時計が鳴る。ベッドがきしむ。スリッパを引きずる音、やかんで湯を沸かす音、夜十一時にベッドに入る音。
    几帳面で、極めて規則正しい人間であることは音だけで分かった。だが、その気配が壁一枚を隔てて密着している事実が、三島には息苦しくてならなかった。

    奇妙な関係が始まったのは、秋の初めのことだった。

    その夜、三島はベッドの上で寝返りを打った際、誤って肘を壁に強くぶつけてしまった。
    ドン、と鈍い音が室内に響いた。
    三島は息を呑んだ。しまった、苦情を言われるかもしれない。
    ところが、数秒の沈黙の後、壁の向こうからまったく同じ調子で音が返ってきたのだ。
    ドン。
    三島は身を固くした。怒っているのだろうか。それとも単なる偶然の反響か。
    確かめるため、三島は恐る恐る、指の背で壁を叩いてみた。
    トントン。
    すると、一呼吸置いて、壁の向こうからも音が返ってきた。
    トントン。

    背筋を電流のようなものが走り抜けた。
    三島は胸を高鳴らせた。もう一度、今度は三回叩いてみる。
    トン、トン、トン。
    数秒後。
    トン、トン、トン。

    完璧な呼応だった。
    その瞬間から、三島の退屈で無機質な生活は一変した。
    誰からも言葉をかけられず、存在を認識すらされない三島にとって、壁の向こうの住人は、この世界で唯一、自分に対して確実に「反応」を返してくれる存在となった。

    二人の間には、言葉のないルールが作られていった。
    一回叩くのは「注意」または「待て」。
    二回叩くのは「了解」「肯定」、あるいは朝の「おはよう」。
    三回叩くのは「おやすみ」。
    リズミカルな四連打は「機嫌が良い」の合図。

    三島が朝起きて二度叩くと、向こうも二度叩き返す。夜、三度叩いて電気を消すと、向こうからも三度音がして、やがて静寂が訪れる。
    顔も、名前も、性別すら知らない。しかし、どの同僚や家族よりも濃密な時間を共有しているという確信があった。

    やがて、三島の心の中に奇妙な感情が芽生え始めた。
    それは傲慢な支配欲であり、庇護欲だった。
    ある朝、三島が寝坊をして七時半に壁を叩いたところ、隣人はいつもの七時には音を立てず、三島が叩いた直後に慌てたように二回叩き返してきたことがあった。
    その時、三島は直感したのだ。
    (ああ、この男は、私がいなければ起きることもできないのだ)

    三島は優越感に浸った。
    壁の向こうにいるのは、自分以上に孤独で、気の弱く、他人に依存しなければ生きていけない哀れな人間に違いない。自分が合図を出してやらなければ、食事も睡眠もとれないのだ。
    三島は昼間、職場で理不尽に怒鳴られても、心の中で冷笑できるようになった。
    お前たちは私を無能と見下すが、私には支配している人間がいる。私が生活のすべてをコントロールしてやっている従順な下僕がいるのだ、と。

    三島は古びた大学ノートを買い、日記をつけ始めた。
    表紙には太いマジックでこう書き記した。

    『壁の向こうの隣人へ』

    ノートには、隣人の「飼育記録」が克明に綴られた。
    「今朝は二分遅れて合図を返してきた。少し怠惰になっているようだ。今夜は厳しく躾けなければならない」
    「私が三度叩くまで、あいつは部屋の明かりを消すことすら躊躇している。哀れな操り人形め。だが安心していい、私が一生、君の面倒を見てやろう」

    三島は自分が神になったかのような全能感を味わっていた。

    破局は、冬の気配が濃くなったある雨の夜に訪れた。
    その日、三島は会社で決定的なミスを犯し、上司から「お前のような代わりの利く機械以下の人間は、明日から来なくていい」と事実上の解雇宣告を言い渡された。
    土砂降りの雨の中、ずぶ濡れになってアパートに帰り着いた三島は、屈辱と絶望で震えていた。
    自分は無価値ではない。自分を必要としている人間がいる。それを今すぐ確かめなければ、自我が崩壊してしまいそうだった。

    三島は部屋に入るなり、コートも脱がずに壁へ駆け寄り、激しく拳を叩きつけた。
    ドンドン!
    (起きているだろう! すぐに返事をしろ!)
    声には出さず、心の中で叫んだ。
    しかし、返事はない。
    三島は焦り、さらに強く壁を殴りつけた。
    ドンドンドン!
    (私を無視するな! お前は私がいなければ何もできないはずだ!)
    返事はなかった。壁の向こうは、死んだように静まり返っていた。

    沈黙。それは三島にとって、世界で最も恐ろしい拒絶だった。
    なぜだ。なぜ合図を返さない。風邪でも引いたのか? それとも、私を裏切ったのか? 私という主人を捨てたというのか?

    三島は半狂乱になった。部屋を飛び出し、冷え切った外廊下へ出る。
    隣の二〇二号室のドアの前に立ち、インターホンを何度も押した。チャイムの音が空虚に響くだけで、人の気配はない。
    三島はドアノブに手をかけた。激しく回すと――カチャリと、あっけなく鍵が開いた。

    無施錠だった。
    三島はためらうことなく、薄暗い部屋の中に足を踏み入れた。

    玄関には靴が一足もなかった。
    部屋の間取りは、三島の部屋と左右対称の全く同じ構造だった。しかし、家具がほとんどない。小さなテーブルと、パイプベッド。それだけだった。
    人の暮らしている温もりが驚くほど希薄だった。

    「おい……どこにいるんだ」
    三島が掠れた声で呟いた。返事はない。
    ふと見ると、部屋の中央にある小さなテーブルの上に、一冊の大学ノートが開かれた状態で置かれていた。
    三島は吸い寄せられるようにテーブルに近づき、そのノートを見下ろした。
    表紙の文字が目に飛び込んできた。

    『壁の向こうの隣人へ』

    三島は息を呑んだ。自分のノートと、まったく同じタイトルだった。
    恐る恐る、開かれたページに視線を落とす。そこには、几帳面で鋭利な筆跡で、こう書かれていた。

    「二〇一号室の男は、完全に私の支配下にある。
    朝、男が壁を二度叩いてくると、私は二度叩き返して朝の挨拶をすると満足気になる。
    夜、男が壁を三度叩いてくると、私は三度叩き返して電気を消すと男も電気を消して眠りにつく。
    あの男は私という存在がいなければ、心の平穏すら保てないのだ。
    社会で誰からも相手にされない哀れな家畜を、私が音で飼育してやっている。
    あの男は、自分が私を操っていると信じ込んでいるようだが、滑稽極まりない。すべては私の敷いたレールの上で踊らされているだけだ」

    三島の頭が真っ白になった。
    手足の先から急速に体温が失われていく。
    操っていたのではない。自分が操られていたのだ。
    自分が神だと思っていた男は、相手にとってもまた「飼育対象の家畜」に過ぎなかったのだ。

    だが、三島の戦慄はそれだけでは終わらなかった。
    ノートの最後のページ、インクが乾いたばかりの最新の行に、こう記されていたのだ。

    「今日、私は実験を行うことにした。
    あいつが帰宅して壁を叩いても、一切の合図を返さない。
    神の沈黙に直面したとき、あの哀れな男がどのような錯乱を見せるか観察するためだ。
    ……いま、実験は成功したようだ。狂乱したあいつが外に出て、私の部屋のドアを開けた。
    私はこれから押入れの中に身を隠し、あいつが絶望する顔を隙間から見届けることにする」

    三島の心臓が凍りついた。

    今、この部屋にいる。
    この部屋の、すぐ近くに。

    三島はぎこちない動きで、首を背後へ向けた。
    部屋の隅にある押し入れ。その襖が、わずかに五センチほど、音もなく開いていた。
    暗闇の隙間から、二つの血走った瞳が、じっと三島を見つめていた。

    視線が交錯した。逃げることも、声を上げることもできなかった。

    その絶対的な沈黙の中、押し入れの暗闇から、骨張った白い指がスーッと伸びてきた。
    指は、木製の枠を捉えると、
    静かに、慈しむように、

    トントン。

    と、二度、叩いた。
    それはいつもの、「了解」の合図だった。

    (終)


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