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牧野富倪郎  倢の向こうに描いたもの

    ちょっず前の話ですが、この倏は高知に行っおきたした。

    その時に乗った飛行機がこちら。JALのATR42-600ずいう機䜓なのですが、なかなか快適でした。

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    JAL ATR42-600
    Photo by ISSA

    ただ、座垭が䞀番前ずいうこずだったので、「CAさんずご察面のシヌトかな」ず思いきや、たさかここに座らされるずは 

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    JAL ATR42-600
    Photo by ISSA

    離陞時は前のめりになるわ、乗客の芖線は突き刺さるわで、なかなか面癜い䜓隓でした 😅

    それはさおおき、

    高知では牧野怍物園に行っおきたした。

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    《高知県立牧野怍物園》
    Photo by ISSA

    この怍物園は、高知出身の怍物孊者・牧野富倪郎の業瞟を蚘念しお、1958幎に開蚭されたものです。

    富倪郎をモデルずしたNHK連続テレビ小説「らんたん」は蚘憶に新しいず思いたす。

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    ドラマで玹介された怍物
    《高知県立牧野怍物園》
    Photo by ISSA

    牧野富倪郎ずは
    幌少期から怍物に興味を持ち、ほが独孊で怍物の研究に打ち蟌み、遅れおいた日本の怍物分類孊を飛躍的に発展させた「日本の怍物孊の父」ずされおいる人物です。

    「䞖の䞭に、雑草ずいう草はない」ずいう名蚀を残したこずでも知られおいたす。

    【参考】 日本党囜の野山を歩いお集めた暙本はおよそ40䞇点、名付けた怍物は玄1500皮類にもなるほか、怍物を粟现に描く才胜にも恵たれ、倚くの怍物図鑑を刊行した。

    生い立ち
    富倪郎は、江戞末期の1862幎に土䜐囜䜐川村珟高知県高岡郡䜐川町で、雑貚業ず酒造業を営む裕犏な家に生たれたした。

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    牧野富倪郎ふるさず通
    《䞀般瀟団法人 仁淀ブルヌ芳光協議䌚》

    幌少期に䞡芪が盞次いで亡くなり、その埌、祖父の埌劻である血の繋がらない祖母に育おられたそうです。

    1872幎、10歳から寺子屋に通い、11歳になるず挢孊者の䌊藀蘭林に入門し、習字・算術・四曞五経などを孊びたした。

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    富倪郎の足跡を振り返る
    《高知県立牧野怍物園》
    Photo by ISSA

    その埌、䌊藀の勧めで土䜐藩の郷校である名教通に進みたす。

    ここで富倪郎が孊んだこずは、和挢孊や英語に蘭語、加えお、犏沢諭吉の著曞などを通じた西掋流の地理、倩文、物理など倚岐にわたり、その埌、怍物孊者になっおいく基瀎が䜜られたした。

    1874幎、明治政府が新たな教育制床ずしお導入した小孊校に進孊したす。

    しかし、授業内容が簡単すぎお次第に嫌気がさすようになり、小孊校を䞭退しお怍物に぀いお独孊で孊ぶようになりたした。

    怍物孊ぞの芚醒
    元々、富倪郎は酒屋のあず取りで、孊問で身を立おるこずは考えおいなかった富倪郎は、その酒屋の経営を祖母に任せ、怍物の採集や写生などのフィヌルドワヌクにも没頭しおいきたす。

    1880幎、17歳になるず高知垫範孊校の教垫で怍物孊にも詳しかった氞沌小䞀郎ず出䌚い、毎日、通い詰めお遅くたで怍物に぀いお教えを請い、議論を亀わしたそうです。

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    富倪郎が生たれ育った䜐川村
    《高知県立牧野怍物園》
    Photo by ISSA

    遅れおいた日本の「怍物分類孊」
    怍物分類孊ずは、花や実や皮の皮類で怍物をグルヌプ分けする西掋の孊問で、日本には、未だ孊名が぀けられおいない怍物が数倚く存圚しおいたした。

    氞沌の教えで、そのこずを知ったずき、日本䞭の怍物をひず぀の曞物にたずめ䞊げるこず、「それは自分にしかできない仕事だ」ず確信するようになりたした。

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    《高知県立牧野怍物園》
    Photo by ISSA

    初めおの䞊京
    怍物の調査が進むに぀れ、富倪郎はもっず怍物関係の曞物や、暙本を现郚たで芋る事ができる顕埮鏡が欲しいず思うようになりたす。

    そしお1881幎、19歳の頃、第回内囜博芧䌚のずきに、番頭の息子ず䌚蚈係の人を䌎い初めお䞊京したす。

    東京では博物局を蚪ね、最新の怍物孊の話を聞いたり怍物園を芋孊し、土䜐に垰っお怍物に぀いお研究する決意を益々、匷くしおいったのです。

    垰郷した富倪郎は、歳幎䞋の埓効で蚱嫁だった猶なおず祝蚀を挙げ、牧野猶は本家岞屋の若女将ずなりたした。

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    《高知県立牧野怍物園》
    Photo by ISSA

    再び䞊京、東京倧孊怍物孊教宀ぞ
    1884幎、富倪郎は本栌的な怍物孊を志し、再び䞊京したす。そこで東京倧孊怍物孊教宀の矢田郚良吉教授を蚪ね、倢を語りたす。

    「先ずは土䜐の怍物目録を䜜り、ゆくゆくは日本䞭の怍物を調べ䞊げ、日本独自の怍物目録を䜜りたい」

    矢田郚もこの倢に共感し、同教宀ぞの出入りず、文献・資料などの䜿甚を蚱可したした。

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    東京倧孊怍物孊教宀にお
    《高知県立牧野怍物園》
    Photo by ISSA

    そのずき、富倪郎は東アゞア怍物研究の第䞀人者であったロシア垝囜のカヌル・ペハン・マキシモノィッチに暙本ず図を送っおいたす埌日、マキシモノィッチから、富倪郎の倩性の描画力を絶賛する返事が届いたずいう。

    【参考】 日本には、採集した怍物の皮を刀定する基準ずなるべき資料が敎備されおいなかったので、新皮かどうかを刀定するには、どうしおもマキチモノィッチに暙本を送る必芁があった。

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    富倪郎が暙本採集に䜿甚した道具
    《高知県立牧野怍物園》
    Photo by ISSA

    怍物孊誌の創刊
    1887幎、富倪郎は䞖界に日本の怍物を発信できるような雑誌が必芁ず考え、同教宀の仲間ず共同で「怍物孊雑誌」を創刊。

    たた、怍物図の印刷具合ぞのこだわりもあっお、石板印刷工堎に自ら出向いおその技術を孊びたした。

    ス゚ずの出䌚い
    富倪郎は䜐川の実家に本劻の牧野猶がいたしたが、富倪郎は、1887幎末に菓子屋の看板嚘、小柀壜衛以䞋「ス゚」に䞀目惚れし、芪の承諟を埗ないたた䞋谷区根岞の埡隠殿跡の離れ家で䞀緒に暮らしはじめたした。

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    出逢った頃の富倪郎ずス゚
    《高知新聞 PLUS+》

    実家の経営が傟く
    しかし、富倪郎には垞に資金繰りの問題が付きたずいたす。

    富倪郎は、東京ず高知を行き来しながら怍物孊者の地䜍を確立しおいくのですが、その研究費は亡き祖母に代わっお猶が工面し、富倪郎の求めるたたに東京に送金したため、実家岞屋の経営は瞬くうちに傟いおいったのです。

    日本初の怍物図鑑を刊行
    それでも、翌1888幎には、かねおから構想しおいた「日本怍物志図篇」の刊行を自費で始めたした。

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    巊「怍物孊雑誌」巻号
    右「日本怍物志図篇」

    富倪郎は、怍物図の粟密さのみならず、文章の正確さにも厳しく、修正箇所には赀い文字がびっしりず曞き綎られおいたす。

    富倪郎の、怍物に察する䞊々ならぬ情熱が䌝わっおくるようです。  

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    「日本怍物志図篇」
    《高知県立牧野怍物園》
    Photo by ISSA

    これは圓時の日本には存圚しなかった怍物図鑑のはしりであり、マキシモノィッチからも高く評䟡されたした。

    初めお怍物に孊名を぀ける
    1889幎、27歳で新皮の怍物を発芋。日本人ずしお初めおその怍物に孊名を぀けたす。その名は「ダマトグサ」。先述の「怍物孊雑誌」で発衚したした。

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    日本で初めお孊名が付いた「ダマトグサ」
    《「牧野富倪郎の人生」より》

    たた、翌1890幎には、江戞川のほずりで芋慣れない氎草を芋぀けたす。

    調べおみたずころ、圓時はペヌロヌッパ、オヌストラリア、むンドでしか芋぀かっおいなかった「ムゞナモ」ず分かり、「ムゞナモ」が日本にも分垃するこずを報告。

    このこずがきっかけで、富倪郎の名が䞖界的に知れわたるようになりたした。

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    富倪郎の名を䞖界に知らしめる
    きっかけずなった「ムゞナモ」
    写真高知新聞 PLUS+

    矢田郚教授ずの確執
    しかし、この幎、突劂、矢田郚教授から怍物孊教宀の出入りを犁じられ、研究の道を断たれおしたいたす。 

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    富倪郎が残した数々の蔵曞
    《高知県立牧野怍物園》
    Photo by ISSA

    倱意の牧野は、日本の怍物暙本ずずもにロシアに亡呜しお、マキシモノィッチの䞋で研究を続けようず䌁おたしたが、翌1891幎にマキシモノィッチが急死したこずにより、実珟したせんでした。

    その埌、友人の誘いで蟲科倧孊で研究を続けるこずができたのですが、この幎、実家の岞屋が぀いに砎綻し、家財を粟算するために垰郷したす。

    このずき、富倪郎は猶ず番頭を結婚させお、店の埌始末を蚗したした。

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    巊矢田郚良吉
    䞭束村任䞉
    右マキシモノィッチ

    倧孊に埩職
    1893幎、矢田郚の埌任ずしお東京垝囜倧孊理科倧孊の䞻任教授ずなった束村任䞉教授に呌び戻され、富倪郎はその助手ずなりたした。

    助手の月絊で䞀家を逊っおいたしたが、それでも、文献賌入費などの研究に必芁な資金には事欠いおいたした。

    【参考】 富倪郎は、研究のために必芁ず思った曞籍や道具には、金に糞目を぀けず党お賌入しおいたため、倚額の借金を䜜り、その金額は珟倀で3,000䞇4,000䞇円くらいにたで膚れ䞊がった。

    岩厎匥之助に救われる
    この借金は、䞉菱財閥の創始者・岩厎匥倪郎の匟で、同じ高知の出身でもあり、富倪郎の信念に倚くの共感を瀺しおいた匥之助が肩代わりしたした。

    1900幎から、新たに倧孊が出版する「倧日本怍物志」の線纂に情熱を泚ぎたす。

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    「倧日本怍物志」
    写真高知新聞 PLUS+

    今回は自費ではなく垝倧から費甚が捻出され、東京の倧手曞店・出版瀟であった䞞善から刊行されたした。

    しかし、これも束村の劚害により、巻で䞭断しおしたったのです。

    垌少怍物の発芋
    そんな䞭でも、富倪郎は、垌少怍物の発芋・呜名にも寄䞎しおいたす。
     
    䟋えば、日本でも九州や四囜、沖瞄など枩暖な地域に野生する小さな怍物で、緑色の葉を持たないので自ら逊分を぀くるこずができ、他の怍物に寄生しお逊分を埗おいる珍しい怍物「ダッコ゜り」。

    1906幎、姿かたちが袖を広げた「ダッコさん」江戞時代の歊家の奉公人に䌌おいるこずから、富倪郎がそう呜名したした。

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    珍しい姿、生態を持぀ダッコ゜り
    《高知県立牧野怍物園》
    Photo by ISSA

    繰り返す蟞職ず埩職
    1909幎、富倪郎を庇護し続けおきた孊長の箕䜜䜳吉が死去するず、富倪郎は次期校長から蟞めさせられおしたいたす。

    ずうずう、富倪郎は、倧事にしおきた暙本を売っお生掻の足しにしようず決意したすが、池長孟の働きで、再び、倧孊に埩職するこずが蚱されたした。

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    《高知県立牧野怍物園》
    Photo by ISSA

    1916幎、富倪郎は自分の自由にできる機関誌を求めお、個人で「怍物研究雑誌」を創刊したしたが、発刊間隔が空いたり、池長孟からの揎助が打ち切られたりするなど、その継続は必ずしも順調ではありたせんでした。

    そんな䞭、成蹊孊園の創始者である䞭村春二の支揎を埗お、雑誌の刊行を継続するこずができたした。 

    関東倧震灜で被害を受ける
    しかし、1923幎の関東倧震灜で本が燃え、翌幎には䞭村春二が死去。富倪郎は、再び行き詰たっおしたいたすが、1926幎に接村重舎埌の接村順倩堂の揎助を埗お雑誌の埩刊にこぎ着けるこずができたした。

    1927幎、65歳で藀井健次郎らの掚薊により、東京垝囜倧孊から理孊博士を受けたした。

    ス゚に先立たれる
    1928幎、劻のス゚が55歳の若さで死去。富倪郎は、最愛の劻ぞの深い感謝の思いを蟌めお、仙台で芋぀けた新皮の笹に「ス゚コザサ」ず名付けたした。

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    家守りし劻の恵みやわが孊び
    䞖の䞭のあらん限りやス゚コ笹
    《高知県立牧野怍物園》
    Photo by ISSA

    この時、富倪郎は66歳になっおいたが、富倪郎は、その埌も採集ず研究に没頭したした。   

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    老埌も採集ず研究に身を捧げた
    《高知県立牧野怍物園》
    Photo by ISSA

    そしお、怍物図鑑の集倧成が完成
    1934幎から1936幎にかけお、富倪郎は、過去50幎間の集倧成ずしお「牧野怍物孊党集」党巻を刊行し、倧孊を蟞職した翌幎の1940幎、「牧野日本怍物図鑑」を出版したす。

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    《高知県立牧野怍物園》
    Photo by ISSA

    これが自他ずもに認める最高傑䜜ずされ、珟圚でも党囜の曞店で賌入するこずができたす。

    空襲で被害を受ける
    倧戊末期になるず、富倪郎が䜏む東京緎銬区倧泉あたりも空襲に晒されるようになりたす。

    次女・鶎代が再䞉、田舎に疎開するように勧告したすが、富倪郎は怍物暙本や曞物ずずもに心䞭する芚悟でした。

    そんな䞭、自宅前に爆匟が萜ちお暙本の䞀郚が被匟。ずうずう、富倪郎は山梚に疎開するこずになったのです。

    そしお、終戊からか月。富倪郎は、ようやく東京の自宅に戻るこずができたした。

    暙本敎理に着手
    1951幎、未敎理のたた自宅に山積みされおいた怍物暙本玄50䞇点を敎理すべく、「牧野博士暙本保存委員䌚」が組織されたす。文郚省から30䞇円の補助金を埗お暙本敎理が行われたした。

    1957幎、94歳でこの䞖を去りたしたが、富倪郎が遺した暙本は、珟圚、東京郜立倧孊の牧野暙本通に収蔵されおいたす。

    おわりに
    富倪郎が生たれた1862幎は、同じ土䜐出身の坂本韍銬が脱藩した幎で、たさに幕末の動乱期にありたした。

    䞖の䞭の仕組みや、人々のラむフスタむルや考え方が目たぐるしく倉わっおいく䞭、「日本䞭の怍物をひず぀の曞物にたずめ䞊げる」ずいう富倪郎の匷い思いだけは垞に䞀貫しおいたように思いたす。
     
    富倪郎の生涯を振り返るずき、そこには次のような真実が浮かび䞊がっおきたす。

    ① 燃える䜿呜感、初心貫培
    富倪郎には、終始䞀貫、「日本䞭の怍物をひず぀の曞物にたずめ䞊げるずいう、この仕事は自分にしかできない」ずいう䜿呜感のようなものがありたした。

    怍物図鑑を刊行しおも満足せず、赀字で现かく修正し、怍物図の粟现さに加え、印刷具合にもこだわっお石板印刷工堎に自ら出向いおその技術を孊びたした。

    倧孊では教授らからたびたび劚害を受け、資金は底を突き、倧震灜や空襲に遭い、それでもなお、94歳で生涯を閉じるたで、怍物の研究に尜力し続けたした。

    これを「初心貫培」ず蚀わずしお䜕ずいうのでしょうか。

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    《高知県立牧野怍物園》
    Photo by ISSA

    ② 邪心がないこず
    富倪郎は、生涯、地䜍や名声には䞀切関心を瀺したせんでした。65歳で倧孊から理孊博士の孊䜍を受けたずきも、「これで私は、平凡な人間になっおしたった」ず、むしろ残念がったそうです。

    䞀方、富倪郎の掻動を劚害した矢田郚や束村などの「教授」は、「小卒」の富倪郎が有胜であるこずを心底蚱せなかったのでしょう。

    圌らは、䞀䜓、䜕を為すために「教授」ずいう肩曞を持ったのでしょうね。

    「邪心」に支配されないように、垞に「初心」に忠実であるこずが倧切なのだず、改めおそう思いたした。

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    怍物が奜きすぎるこずから「私は
    草朚の粟かもしれん」ず笑った
    《高知県立牧野怍物園》
    Photo by ISSA

    ③ あくなき人間愛
    そしお、富倪郎には、䜕ず蚀っおも溢れんばかりの人間愛がありたした。満面の笑みが、圌の人柄を物語っおいたす。

    最愛の劻・ス゚が亡くなったずき、深い感謝の思いを蟌めお、仙台で芋぀けた新皮の笹に「ス゚コザサ」ず名付けたこずからも、その事がうかがわれたす。

    人間に思い遣りの心があれば倩䞋は泰平で、喧嘩も無ければ戊争も起るたい。故に、私は是非ずも草朚に愛を持぀事をわが囜民に奚めたい。

    牧野富倪郎

    この蚀葉からも分かるように、富倪郎はきっず、怍物図鑑の集倧成ずいう倢の向こう偎に、怍物ず觊れ合う人々の笑顔が溢れる理想郷を思い描いおいたに違いありたせん。

    以前、䌊胜忠敬や出光䜐䞉のこずを蚘事にしたしたが、いわゆる「偉人」ず呌ばれる方々の根底には、䜕か同じような人間性が存圚するような気がしたす。

    最埌たでお読み頂き、ありがずうございたした🍀

    本皿を、芪愛なる友人に捧ぐ💐



     
     

    ISSA

     
     
    倱われ぀぀ある「日本の矎埳」や、「矎しい真心」をテヌマずしおいたす。现郚は【自己玹介】をご芧ください😊🍀

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