メインコンテンツへスキップ
見出し画像

『VIVANT』のジャミーンと「善悪を見抜く力」

    『VIVANT』を見ていて、どうにも引っかかることがあった。

    ジャミーンである。

    彼女には、人間の善悪を見抜く特殊な能力があるらしい。

    最初のうちは、それほど気にならなかった。

    世の中には、人を見る目が妙に鋭い人がいる。とりわけ子どもは、大人が気づかないような表情や声の調子、ちょっとした仕草から、「この人は怖い」「この人は信用できそう」と感じ取ることがある。

    ましてジャミーンは、かなり特殊な環境を生き抜いてきた少女である。

    そういう経験のなかで、人間の敵意や危険を察知する感覚が人並み外れて発達した――というくらいなら、ドラマとして十分にあり得る話だと思っていた。

    ところが、どうもそういうレベルではないらしい。

    写真を見ただけでも、その人物が善人なのか悪人なのかをかなり正確に判別できる。

    ここまで来ると、私は少々しらけてしまった。

    いや、『VIVANT』というドラマそのものが、もともと相当に荒唐無稽なのである。

    秘密組織があり、国際的な謀略があり、公安が動き、別班が動く。

    「そんなことが本当にあるのか」と言い出したら、このドラマは楽しめない。

    むしろ、かなり荒唐無稽な話を、豪華な俳優陣が大真面目に演じる。その力技によって、「ひょっとすると本当にこんな世界があるのかもしれない」と視聴者に思わせる。

    そこが『VIVANT』の面白さだった。

    しかし、「人間の善悪がわかる」という能力は、少し種類が違うように思う。

    なぜなら、そもそも人間を「善人」と「悪人」に分けることなどできるのだろうか。

    たとえば乃木はどうなのだろう。

    国家のためとはいえ、人を殺す。

    では悪人なのか。

    ベキはどうだろう。

    テントの行為を見れば、明らかに犯罪者である。しかし彼には彼なりの理由があり、守ろうとしているものがある。

    公安だって同じである。

    国家の安全を守るという「正義」のために、時として普通なら許されないようなことをする。

    『VIVANT』というドラマが面白かったのは、むしろそこだったのではないか。

    誰が正義で、誰が悪なのか。

    見る側の立場が変われば、それは簡単に入れ替わる。

    善悪の境界線が揺れ動く世界を描いてきたドラマなのである。

    そこへ突然、

    「この子には善人と悪人がわかります」

    と言われると困ってしまう。

    人間のなかに「善」「悪」という客観的な属性があって、それを何らかの方法で測定できるということになってしまうからである。

    考えてみれば、かなり不思議な話である。

    過去に犯罪を犯したが、深く反省して現在は他人のために生きている人は、善人なのか悪人なのか。

    まだ何の犯罪も犯していないが、将来重大な犯罪を犯す人はどうなのか。

    国家の命令によって人を殺す人は?

    家族を守るために法律を破った人は?

    そして何より、乃木の写真をジャミーンに見せたら、彼女はいったいどんな反応をするのだろう。

    そう考え始めると、「善悪を見抜く能力」という設定は、単なるドラマ上の便利な道具では済まなくなる。

    人間の善悪とは何か。

    それはその人の内部に固定された性質なのか。それとも、その人が置かれた状況や、誰の側から見るかによって変わるものなのか。

    ずいぶん大きな問題になってしまう。

    だから私は、ジャミーンの能力については、まだ結論を出さないことにした。

    もしかすると、これは意図的な仕掛けなのかもしれない。

    彼女が見抜いているのは、本当に「善悪」なのか。

    敵意なのか。

    嘘なのか。

    危険性なのか。

    あるいは、私たちがまだ知らない別の何かなのか。

    そして最後には、「ジャミーンは人間の善悪を見抜いていた」という私たちの理解そのものがひっくり返されるのかもしれない。

    そうであってほしい。

    なぜなら、『VIVANT』というドラマが、人間を単純に善人と悪人に分ける物語だとは思いたくないからである。

    むしろ、その区別が簡単にはつかない世界を描いてきたドラマだったはずだ。

    いまのところ私は、豪華な俳優陣が「この子には人間の善悪がわかる」という荒唐無稽な設定を大真面目に演じているのを見ながら、少々気の毒にすらなっている。

    しかし、まだ途中である。

    ここまで大掛かりな物語を作ってきたのだから、さすがにこのままでは終わらないだろう。

    「ああ、そういうことだったのか」

    最後にはそう言わせてくれることを期待している。

    そうでなかったら――。

    そのときは改めて、思い切りツッコむことにしよう。

     
     
    1961年大阪府生。現在、大東文化大学経済学部教授。著書:岩田規久男編『昭和恐慌の研究』(東洋経済新報社 2004年)、『経済失政はなぜ繰り返すのか』(東洋経済新報社 2005年)、渋沢研究会編『はじめての渋沢栄一』(ミネルヴァ書房、2020年)など。

    あなたへのおすすめ