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第1話 コミケは最初から有明にあったわけじゃない――会議室から晴海へ

    第1話 コミケは最初から有明にあったわけじゃない――会議室から晴海へ

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    コミケは最初から有明にあったわけじゃない

    第1話 会議室から始まった、同人誌の大移動

    現在、東京ビッグサイトで開催されるコミックマーケット。

    漫画やアニメが好きな人なら、一度は名前を聞いたことがあるだろう。巨大な展示場に人々が集まり、個人やサークルが作った同人誌を頒布する、日本を代表する同人文化のイベントである。

    しかし、ここでひとつ質問したい。

    コミケは、最初から東京ビッグサイトで開催されていたのだろうか。

    答えは、もちろん違う。

    1975年に始まったコミックマーケットは、東京の会議室や産業会館、川崎の公共施設、横浜の展示施設などを転々としながら成長していった。そして、1981年に初めて晴海の東京国際見本市会場で開催される。

    現在の風景を知っている人からすると、少し意外な歴史かもしれない。

    今回は、まだ巨大イベントではなかったコミケが、どうやって自分たちの居場所を探していったのか。その場所の変遷だけに注目してみたい。

    1 1975年、出発点は虎ノ門の会議室

    コミックマーケットの第1回が開催されたのは、1975年12月21日。

    場所は、東京・虎ノ門の日本消防会館会議室だった。

    参加サークルは32。一般参加者は推定約700人。

    現在の規模を考えると、ずいぶん小さく感じる。しかし、ここがすべての始まりだった。

    コミックマーケット準備会の公式年表によれば、企画の背景には、当時の既製の「マンガ大会」に対する不満があった。批評集団「迷宮’75」が中心となり、同人誌即売会としてのコミックマーケットを企画したのである。

    ここで注目したいのは、最初から大きな会場を確保して始めたわけではないということだ。

    まず、作品を作る人たちが集まれる場所を用意する。

    その場所で本を頒布し、交流する。

    参加者が増えれば、次の会場を探す。

    実にシンプルな出発点である。

    ところが、イベントというものは、始めることよりも続けることのほうが難しい。

    会場には利用条件がある。参加者が増えれば、通路や受付、展示スペースも必要になる。さらに、会場側との調整や、当日の運営を担当するスタッフも必要だ。

    32サークルで始まったイベントであっても、継続するためには、毎回場所を確保しなければならない。

    コミケの歴史は、作品を作る人たちの歴史であると同時に、場所を確保する人たちの歴史でもあったのだ。

    2 虎ノ門から板橋へ。最初の移転

    第1回の次に開催された第2回は、1976年4月4日。

    会場は板橋産業連合会館だった。

    第3回、第4回も同じ会場で開催されている。

    つまり、コミケは最初の会場に定着するのではなく、早い段階から場所を変えていた。

    第4回には、参加者が増えたため、初めて入場制限が実施された。準備会は新しい会場を探し始め、ガイドブックにあたるカタログも初めて発行された。

    ここが興味深い。

    会場の変更は、単なる引っ越しではない。

    参加者が増えると、入場方法を考えなければならない。来場者に必要な情報を伝える仕組みも必要になる。会場探しとイベント運営の仕組みづくりが、同時に進んでいったのである。

    その後、1977年には大田区産業会館が主要な会場となる。

    第5回の参加者は推定約1,300人。第6回には約2,000人、第7回には約2,500人と、参加者は増えていった。

    1978年にも大田区産業会館で開催される一方、四谷公会堂を使った開催も行われた。

    この時期のコミケは、現在のように大規模展示場を丸ごと使うイベントではない。会館やホールを使いながら、その都度、開催可能な場所を確保していた。

    言い換えれば、まだ「コミケの会場」と呼べる固定された場所が存在しなかったのである。

    3 会場を変えるたびに、運営の問題も生まれる

    1979年には東京都立産業会館の台東館でも開催された。

    しかし、この会場での開催は1回限りとなった。公式年表には、ゴミ箱からぼやが発生したことが記録されている。

    この出来事だけを取り上げて、会場が使えなくなる事情をすべて説明することはできない。しかし、イベントを開催する以上、安全管理が欠かせないことはよく分かる。

    会場を借りるということは、空間を使わせてもらうということだ。

    参加者にとっては作品を売買し、交流する場所であっても、会場側にとっては建物の安全や管理が重要になる。

    人が集まるイベントを継続するためには、主催者側にも責任が伴う。

    こうして会場を転々とする過程で、コミケは場所の確保だけでなく、運営の仕組みも整えていった。

    そして1980年、コミケは川崎市民プラザへ移る。

    公式年表によると、第14回では参加者が約6,000人に達し、準備会は受付、警備、救護などの担当を分ける体制を整えていった。

    ここで、イベントの姿が少しずつ変わり始める。

    参加者が増えれば、会場を借りるだけでは済まない。

    受付が必要になる。警備が必要になる。具合の悪くなった参加者への対応も必要になる。

    つまり、場所の規模が大きくなるにつれて、場所を使いこなすための組織も必要になるのだ。

    4 川崎から横浜へ。そして、予定外の会場変更

    川崎市民プラザでの開催は、1980年から1981年にかけて続いた。

    ところが、参加者やサークルの急増に伴って、準備会内部でも運営上の問題への対応をめぐる意見の食い違いが生じる。

    公式年表では、その余波によって当初予定していた川崎市民プラザが使えなくなり、会場の変更を迫られたと説明されている。

    1981年夏の第18回は、横浜産業貿易ホールで開催された。

    参加サークルは512、一般参加者は約1万人。

    最初の700人から、わずか数年で1万人規模にまで大きくなっていた。

    この数字の変化を見ていると、会場探しが簡単ではなかったことが想像できる。

    最初は会議室でよかった。

    しかし、参加者が増えれば会議室では足りない。産業会館でも、利用できる部屋や日程に限界がある。さらに、イベントを運営する側の事情によっても、会場を変更しなければならなくなる。

    会場の問題は、単純な広さだけではなかったのである。

    5 1981年冬、ついに晴海へ

    そして、1981年12月20日。

    第19回コミックマーケットは、東京国際見本市会場の晴海地区で開催された。

    これが、コミケにとって初めての晴海開催である。

    会場は東京国際貿易センター南館2階。参加サークルは600、一般参加者は推定約9,000人だった。

    現在の東京ビッグサイトを知っている人にとっては、ここでようやく、コミケの歴史と大規模展示場の歴史がつながって見えてくるかもしれない。

    ただし、ここで注意したいことがある。

    1981年に晴海へ移ったからといって、その後ずっと晴海だけを使い続けたわけではない。

    むしろ、ここから先も、コミケは会場の確保に苦労することになる。

    それでも晴海は、その後のコミケを語るうえで欠かせない場所となった。

    1982年には一般参加者が1万人を超え、1984年にはサークル数が2,000を超え、1985年には3,000を超える。

    晴海は、成長していくコミケを受け止める主要会場になっていったのである。

    6 ここまでの歴史を、場所だけで振り返る

    1975年、虎ノ門の会議室から始まったコミケ。

    その後、板橋産業連合会館、大田区産業会館、四谷公会堂、東京都立産業会館台東館、川崎市民プラザ、横浜産業貿易ホールなど、複数の会場を経験してきた。

    そして1981年冬、晴海へ。

    こうして並べてみると、ひとつのイベントが大きくなる過程で、場所との関係も変化していったことが分かる。

    最初は、開催できる場所を探すことが大切だった。

    参加者が増えると、より多くの人を受け入れられる場所が必要になる。

    さらに、会場を借りるための調整、安全管理、運営体制の整備も欠かせなくなる。

    コミケは、単に大きな場所へ移っていったのではない。

    その時々の条件の中で、開催できる場所を探し続けてきたのである。

    そして、晴海という場所を得たあとも、会場問題は終わらなかった。

    1986年には、再び晴海を離れることになる。

    その行き先は、東京流通センターだった。

    さらにその後、コミケは幕張メッセへ進出し、再び晴海へ戻るという、まるで振り子のような移動を経験することになる。

    なぜ、晴海を離れなければならなかったのか。

    なぜ、幕張メッセという大規模会場から、再び晴海へ戻ることになったのか。

    そして、なぜ1996年に有明の東京ビッグサイトへ移ることになったのか。

    次回は、コミケの会場変遷史の中でも、特にドラマのある1986年から1991年を追っていきたい。

    会場を大きくすれば解決する、という単純な話ではなかった。

    そこには、会場の利用条件、社会的な問題、そして巨大化するイベントをどう継続するかという課題があったのである。

    参考資料

    * コミックマーケット準備会「コミックマーケット年表」
    * コミックマーケット準備会「コミックマーケットは何か?」

    ※参加者数は公式年表の推定値を含む。会場名・開催回・開催時期は公式年表を基に構成。

    第1話の中心に置いたのは、「会場を移るたびに、イベントを続けるための仕組みも変わっていった」 という視点です。虎ノ門から晴海までの会場と開催回、参加者数、移転理由は、コミックマーケット準備会の公式年表で照合しています。

    次は第2話。東京流通センター、晴海への復帰、幕張メッセ、そして1991年の再移転を、会場側の事情と当時の社会背景を分けながら、さらに掘り下げていきます。



    おじさん、これが第1話の会場変遷マップだよ!

    ポイントは、東京の一か所に集まっていたわけではなく、東京23区内から川崎・横浜まで会場が広がっていたこと。

    なお、これは位置関係をつかむための概略図で、矢印は正確な移動経路ではないよ。会場名や開催時期はコミックマーケット準備会の公式年表で確認できる。

    特に覚えておくといいのは、1975年の虎ノ門から始まり、1981年12月に晴海へ到達したこと。ここから第2話の「晴海を離れ、幕張から引き戻される」歴史につながっていくんだ。


    おじさん、第1話「コミケは最初から有明にあったわけじゃない」に合わせて、歴史・会場の変遷・同人誌文化・イベント運営まで拾えるタグを50個用意したよ!

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    lani

     
     
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