
【掌編小説】あなたを待つ時間
待つ時間が嫌だ、という人は多いだろう。
だが私は、その時間が嫌いではない。
「ごめん! 急用入って遅れる! もしかしたら、結構待たせちゃうかもしれない……」
英理からのLINE。彼女が待ち合わせの時間に遅れるのはいつものことだ。
私は流れるような手つきで返信を打った。
「了解。焦らなくても大丈夫だよ! 気をつけて来てね」
「ありがとう。駅に着いたら連絡するね!」
「わかった! 待ってるね!」
よし。これでひと段落。
私はスマホで、目星をつけていた喫茶店までの地図を出した。以前から彼女が気になると言っていた店だ。
ここから五分ほど歩けば着く。彼女を待つのにうってつけの場所だ。
「よし、行くか」
私は軽やかにヒールを鳴らしながら目的地へと歩き出した。
木製の重い扉を開ける。銅製の呼び鈴の楽しげな音が涼やかに響いた。
「いらっしゃいませ」
重厚なカウンターから、初老のオールバックの紳士がにこやかに迎えてくれた。カフェベストに蝶ネクタイ。絵に描いたような老舗の喫茶店のマスターの装いだ。
静かに扉を閉めると、馥郁としたコーヒーの香りが鼻腔をくすぐった。
シャンデリアの柔らかな光。磨き込まれたウォルナット製のテーブルと布貼りの椅子。調度品は上質なアンティークで揃えられていて、計算された配置からも店主の並々ならぬこだわりが伝わってくる。
控えめに流れるジャズピアノが店内のクラシカルな雰囲気に軽やかさを添えていた。
当たりだ。
私は小さく笑みを刻んで、一番奥の卓についた。メニューを手に取り、ぱらぱらとページを捲る。
「すみません」
「はい」
「マンデリンをお願いします」
「かしこまりました」
店主は礼儀正しくお辞儀をしてカウンターへと戻っていった。
スマホのアルバムを開いた。画面の中の英理は、ノーメイクにラフなスウェット姿で私に向かって笑いかけている。
クスッと笑みがこぼれるのと同時に、店主がコーヒーを載せた銀の盆を手にして現れた。
「お待たせいたしました。マンデリンでございます」
コトリと小さな音を立てて、私の前にカップの載ったソーサーを置いた。
「どなたかと待ち合わせですか?」
店主は私に問いかけた。口コミでは寡黙な人物と評判だったが、今店にいる客が私だけだからだろうか。彼の穏やかな口調と爽やかなマンデリンの香りに自然と言葉が出た。
「ええ、恋人と。よくわかったわね」
「店に入られたときから、とても幸せそうなお顔をしていましたから」
そんなに顔に出ていたのだろうか。
普段から何を考えているのかわからないと言われることが多い私は驚いた。店主は私の顔を見て眼鏡の奥の瞳をきらりと光らせて笑った。
「店にはさまざまなお客様がいらっしゃるので」
「ああ……そういうこと」
「あなたにそんな顔をさせるのだから、きっととても素敵な方なんでしょうね」
素敵な方。
偶然だろうが、相手を男性と断定しない店主を私は好ましく思った。
「ええ、とても……」
「ごゆっくり」
店主は伝票をそっとテーブルに置いて、再びカウンターへと戻っていった。
奥まったテーブルを選ぶのは、彼女を待つ時間に身についた私の習慣だ。
英理は喫茶店巡りが趣味だが、多忙ゆえになかなか店を自ら開拓することはできない。
彼女が気になっている喫茶店で、その店の空気と彼女の一番好きなマンデリンを味わいながら、彼女に思いを馳せて待つ。
私にとって何よりも幸福な、贅沢な時間だ。
この店で待っていると言ったら英理はどんな反応をするだろう。どんな顔をして、あの扉を開けるだろうか。
もうすぐやってくるであろう彼女を思い浮かべながら、私はカップを手に取り、マンデリンを一口飲んだ。
シロクマ文芸部さんの企画に参加させていただきました。
「待つ時間」
私は待ち合わせにはギリギリに到着するタイプなので、こんなふうにゆったりと待ってみたいです。
今回も素敵なお題をありがとうございます。
よろしくお願いいたします。