
【掌編小説】偶然のきっかけ
それを見つけたのは偶然だった。
古びた本。
持ってみると、ずしっと重さを感じる。図書室でしか見たことがないような紺色の布張りの装丁。めくると、小難しい字の羅列が何ページも続いている。閉じて背表紙を確認した。
「……『罪と罰』?」
「おいっ!」
背後からの声に思わず肩が跳ねた。強い力で腕を引かれると、意外な人物がそこにいた。
「……綱川」
眼鏡の奥の瞳が鋭く光っている。細腕のこいつに、こんな強い力があるなんて。
綱川は、俺の手の中の本をひったくるように奪った。その振る舞いに非難の声をあげようとしたが、震えながら両手に握りしめた本を一心に見つめる姿に言葉が出なかった。
綱川は、はっとしたように俺を見た。
「田村、君が拾ってくれたのか」
「そうだけど」
「ありがとう。さっきはすまなかった」
「いや」
先程までの様子が嘘のように平静な声に調子が狂う。
いや。さっきのがイレギュラーで、目の前のこいつは、いつもの控えめで穏やかな綱川だ。
「その本、大切なものなのか?」
「ああ」
綱川は手の中の本を指先でそっと撫でた。
「幼い頃、父がくれたんだ。あの頃の僕には、難しすぎて読めなかったけど」
「そっか……」
その先を聞きたかったが、愛しむようなその手つきを見てやめた。
今は、ふれてはならないような気がした。
「じゃあ、僕は戻るよ」
「綱川」
「何?」
「その『罪と罰』、お前は読み終わってる?」
「当たり前だろう。なんなんだ、君は」
綱川は呆れたように俺を見る。当たり前か。でも、ただきっかけが欲しいだけだから。
「その本のこと、俺に教えてくれよ」
「いいけど、君、本なんてあまり読まないだろ」
「まあ、そうなんだけど。でも」
俺はすうっと大きく息を吸った。
「知りたいんだよ。その本と……お前のこと」
拝啓文芸部さんの企画に参加させていただきました。
落とし物を拾ったり、人との距離が縮むときって、意外とささいなきっかけだったりするような気がします。
よろしくお願いいたします。