
「相対的な」幸福を②
緊急時の備えは、ありました。
それでも、必要なときに届かないことがある。
では、どうすれば良かったのか。
保管場所が分かったとして、
ファイルに辿り着けたら即座に対応できたのでしょうか。
ファイルは、書式こそ共通ですが、お一人ずつに分かれていました。
ただ、細かな情報は僅かでごく簡単に書かれており、
はっきり分かるのは「上司へ急いで報告すること」くらいでした。
スタッフの経験年数に関係なく、
おそらく誰でもそのように動くしかなかったと思っています。
資料がもっと詳しく、いつも手元にあれば、対応できたのでしょうか。
数十人分の、てんかんに関する資料の束を常に持ち歩き、
その中から一人の情報を探し出し、読み上げて対応する。
それは現実的ではありません。
スマートフォンですぐに取り出せるなら別ですが、
一人ひとりの個人情報である以上、そう簡単には開けません。
大切に保管しているがゆえに
現場のスタッフを責めることはできませんでした。
個別支援計画をはじめ、
利用者様の既往歴・症状・対策手段などは、個人情報のかたまりです。
簡単に閲覧できてはいけないものです。
しかし残念ながらそれらの資料は、
私が見てきた中でも、厳重に管理している施設もあれば、映画のワンシーンのように山積みになっている書類の中にまぎれている施設もありました。
忙し過ぎて、書類の整理と更新が追いつかないのです。
全く同じ資料が重なっている(ようにしか見えませんでした)場合もあれば、数年前の資料にペンで更新情報を殴り書きにしてある場合もありました。
ただ、それがいつ、誰が記載した物なのか、施設で現役のスタッフによる物なのか、全く分かりませんでした。
年に5人も10人も辞めていくほど過酷な現場で、休みなく働き続けるスタッフに、私の様な若輩が問題提起と対策を求めることはできませんでした。
スタッフ寄りの甘い見方かもしれません。
それでも、日々駆け回るスタッフたちを見て、皆、
『なんとかしようともがいている』
と感じたのです。
ある資料では、筆跡、ペンの色や太さが違う複数のメモ書きがありました。
沢山のスタッフが重要だと思った事を記載した事が、よく分かりました。
ただ、現実として、誰もがいざというときに、
安心してすぐ使える状態ではなかったのは間違いありません。
大切に保管しているがゆえに、
大切に保管しようとしたがゆえに、使えなかったのです。
しかし、発作は時も場所も選んでくれません。
正しい資料があったとしても、
その資料のある施設の中にいるとは限りません。
施設の中であったとしても、
適切に指示を下せる人が常にいるとは限りません。
早朝かもしれない。
深夜かもしれない。
休日かもしれない。
情報は、守らなければならない。
けれど、いざというときには、
すぐに使えなければならない。
手元にあってほしいもの
もし今、あの送迎車の中に戻れるとしたら。
手元にあってほしいと思うのは、分厚いファイルではありません。
その方々お一人分ずつの、短くまとめた手がかりです。
発作のとき、その方にはどんな様子が見られるのか。
そのとき、どう動いてほしいのか。
誰に、どの順番で連絡すればいいのか。
その手がかりは、施設の棚の奥ではなく、その方のそばにあってほしい。
書き残したものが、発作そのものを防ぐことはありません。
救急の対応や、専門職の判断に代わるものでもありません。
減らせるのは、必要なことが分からないまま過ぎる時間と、
伝わるまでの遅れ。
その数分がどれほど長く感じられるかを、私は知っています。
万が一の不幸を「摘む」
幸福を、誰かに直接手渡すことはできません。
けれど、前もって分かっている悲しいことの芽なら、
先に一つずつ摘んでおけます。
万が一は、起こりうるから万が一。
特別なことをするのではありません。
問題が分かっているのなら、
防げる手段があるのなら、
その不幸を一つ、前もって減らしておく。
その積み重ねが、誰かの穏やかな明日を守ってくれる。
願っているのは、そういう「相対的な」幸福です。
私は、
その方達の手がかりと共に、
その方達のそばにいたい。