
生き直す場所としての博物館 ー花鳥図襖に泣くー
狩野永徳の『花鳥図襖』を前にして、思わず足が止まった。上野の東京国立博物館で開催中の大徳寺展」で展示されている聚光院の障壁画、秋から冬にかけての場面を描いた西側の四面だ。
襖絵に向かって右側には大きな松の木の前で、鶴が地面の餌を啄んでいる。一方、左側では雁たちが空と水辺で呼び合っている。

鶴の白い首に黒い首輪のような模様が描かれているのだが、その細かい筆遣いの繊細さに打たれ、ため息が出た。写実性の高さに驚くという以上に、襖絵の作者である永徳の鳥への愛情の深さがストレートに伝わってくる。

向かって左側二面に描かれた雁たちの対話も、私の目を捉えて離さない。口を大きく開けて水辺から空の仲間に何かを訴えている雁、それに応えるかのようにして水辺に下降しようとする雁の姿。互いに何かを伝えようとする雁たちのひたむきさと、鳥たちを精緻にして優しいタッチで描く作者のまなざしのあたたかさを感じずにいられなかった。

あまりにも心に響く絵だったので、右から左へと舐めるようにして見て、さらに右へと戻るというのを何度も繰り返した。そうするうち、なぜだか涙がこぼれて止まらなかった。
前日、私はもはや笑うしかないような厳しい時間を過ごした。それはこれまで生きてきた中でも最悪の部類に入るようなことだった。もっとも、年の功と言うべきか、私はその事態を素早く受け容れることができた。そして、自分でも驚くほど迅速に気持ちを切り替え、次の行動に移すこともできた。
だが、自分の内のどこかが、その事態には追いつけていなかったのかもしれない。この襖絵に今にも動き出しそうなくらいに生き生きと描かれた鳥たちの姿と、永徳が一筆一筆にたっぷりと込めた自然への熱い愛に、私の心が感応したのだろう。
それが私の中でカタルシスを生んだのか、心の奥底で蠢いていた、自分は世界から見放され、孤絶してしまうのではないかという恐怖は和らいだ気がした。
いささか論理は飛躍するかもしれないが、美術館や博物館、あるいはコンサートホールはこういう時のためにあるのではないだろうか。人間が創造するもののあたたかさに包まれることで、傷つき干からびそうになった心を取り戻せる時間と場所が、そこにある。私自身も、そんな体験を求めて、これらの場所を訪れているのだ。
ずっと前に読んだチャップリンの自伝の一節を思い出す。彼は成功を夢見て故郷イギリスからアメリカに渡って活動し始めたが、様々な困難に直面して心をすり減らしていた。そんなある日、たまたまメトロポリタン歌劇場の前を通りかかった。そのとき『タンホイザー』が上演されていた。ドイツ語はまったく解せず、作品への予備知識はなかったが、気にせず当日券を買って公演を観ることにした。舞台で何が起こっているかは理解できなかったが、ワーグナーの音楽に感動し、号泣した。心の癒しを得た彼は生き返り、私たちがよく知る「喜劇王」への道を力強く歩み始めた。そんなエピソードが書かれていたと記憶する。
私も、狩野永徳の『花鳥図襖』を見て、このチャップリンと似たような体験をしたのだ。もちろん、私は彼のような偉人ではない。それに、私の場合、永徳や『花鳥図襖』への予備知識はあった。だが、博物館という場で芸術作品に触れ、生きる力を得たことは間違いない。
国立の博物館や美術館は、今、厳しい経済状況の中で運営を続けている。しかし、その存続が揺らぐようなことがあれば、人が「生き直す」場となり得る場所が失われてしまう。そうなれば、私たちの社会はどんなにか殺伐としたものになってしまうだろうか。考えただけで空恐ろしくなる。
知恵を絞って、博物館や美術館、コンサートホールを維持していけないか。私たちがそうした施設から受けている恩恵を、次の世代にも用意してあげられないか。私は業界の人間ではないけれど、一人の市民として何かできることがないか探していこうと思う。
■開創700年記念特別展 大徳寺 (10月14日-12月6日) 東京国立博物館