
その人は、愛、がわからない
情緒未成熟な親は、傍目にはちゃんとした大人であり、子を持つ親である訳です。
情緒の成熟度合いを第三者が正確に見て取る事は難しく、
また情緒未成熟な親は世間から、立派な親だと思われる事に熱心ですから尚更、
第三者には親の情緒の在り様は見えて来ません。
情緒未成熟な親は内発的な動機から、良い親になる事、を目指すのでは無く、
世間から、立派な親だと思われる事、に熱心です。
情緒が育っていないその親の、心の中は空虚です。
空虚を埋める為に、立派な親、だと言う世間の評価が欲しいのです。
内面が空虚な親の中身はつまり、がらんどう、であり、
他者の評価によってしか、自分の価値を感じる事が出来ません。
だから過剰に体裁を整えます。
自分の中身が、がらんどう、である事を認める事は恐怖です。
その意味に於いて情緒未成熟な親が、過剰に対外的な体裁を保とうとするのは、
内包する恐怖からの逃避行動であると言えます。
情緒未成熟な親は、恐怖から逃れる事が、生きる意味、になってしまいます。
情緒が未成熟であるという事は心の中に、確かな【自分】という意識、が育っていないという事です。
確かな【自分】という意識、はパーソナリティの、芯、です。
芯が在ればこそ、自分と他者を分ける感情の【境界線】が引かれます。
確かな【自分】という意識と、
自他を分ける感情の【境界線】は、
常にワンセットです。
【自分】が育っているなら、【境界線】も明確に引かれています。
【境界線】が明確に引かれているならば、心に【自分】が育っている、という事です。
情緒未成熟な者は【自分】が育っていないから、空虚、なのです。
情緒未成熟な者は【境界線】が曖昧だから、他者を尊重する事が出来ません。
つまり情緒未成熟な者が見ている世界は幼子の様に、独りよがり、な世界なのです。
傍目には立派な大人に見えて、実際子を持つ親であったとしても、
情緒未成熟な親の心は、がらんどう、であり、
見ている世界は極めて幼児的で独りよがりな世界、と言えます。
親は、自らが抱える空虚を埋める事のみが生きる目的なのですから、ひたすら体裁を整える事に忙しく、
独りよがりな世界に住んでいて、他者を尊重する事が出来ないのですから、
子どもは親を満足させる為の、便利な道具、として扱われます。
本来ならば親が、幼い子どもを肯定的に受け容れる事で、
子どもは安心感に包まれて【自分】が育ち、【境界線】が明確になります。
けれども親の情緒が余りにも未熟である場合、子どもは親の感情の面倒を見なくてはならなくなります。
それは、心理的には親子の役割りが逆転している事に他ならず、
親子の役割り逆転は紛れも無く、心理的虐待、です。
情緒未成熟な親の下で育った子は、親の顔色を窺います。
気分によってコロコロと変わる親の要求をいち早く察知する為に、その子はひたすら親の顔色を窺います。
自分の感情に構っている暇など、その子にはありません。
何故ならば、どんなに情緒未成熟であっても親子関係に於いて親は、絶対、だからです。
未だ幼いその子にとって親は、全てであり世界です。
その子は全てを失いたくは無いし、世界にそっぽを向かれたく無いのです。
だから自分の感情になど構っている暇は、その子にはありません。
自分の感情をかなぐり捨てて、親の顔色を窺い、親の要求を察知し、親の感情を優先します。
それは生まれた時に始まって、永く続く過酷な環境です。
生まれた時に始まるのですから、その子は自分の感情を大切にする感触を知りません。
大切にするどころか、その子にとって自分の感情は、邪魔なもの、でしか無いのです。
感情の動物である人間が、感情を失ってしまったなら、
活き活きと生きられる筈がありません。
軽やかに人生を歩める訳がありません。
心はいつも塞いで、鉛の様に重たくなります。
どんなに心が重たくても、先に触れました様に、過酷な環境は生まれた時には始まっていたのですから、
その子にとっては、鉛の様に重たい心がデフォルトなのです。
鉛の様に重たい心が当たり前であるならば、その子は自分が抱える重大な生きづらさに気がつく事が出来ません。
過酷な環境に生まれて、
肯定的な受け容れを知りません。
思いやられた経験がありません。
愛しさを湛えた眼差しを向けられた事がありません。
抱き締められた事も、優しく頭を撫でられた事も無いのです。
その子には、あたたかさに触れた経験、がありません。
親は、
冷たいのに、この家はあたたかい、と言いました。
他者を尊重する事など無いのに、お前の為を思って…、と言いました。
愛する能力が育っていないのに、愛している、と言いました。
だからその子は、愛がわからなくなってしまいました。
過酷な環境に育った人は、自分が抱える、生きづらさ、が判りません。
けれども今、理由も無く心が塞ぐなら、
何故だか判らないけれど心が重たいなら、
立ち止まって真実を見つめるタイミングだと思うのです。
立ち止まって、方向を見定めて、
そして歩を進めれば良いのです。
真実は決して、心地よいものでは無いかも知れませんが、
真実が一つ見えたなら、心が少し軽くなり、
真実が二つ見えたなら、足取りが少し軽くなり、
三つ、四つ、と、軽やかさは増して行きます。
気づいた時にはきっと、
自分として、自分の人生を、
軽やかに、活き活きと、
駆け出している、と思うのです。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム