
生きとるけ、動くよ。
鉄海市。
十月十日。
午前10時37分。
若松。
脇田漁港。
海。
船。
魚。
人。
焼いた魚の匂い。
子どもの声。
その真ん中で。
一人の女の子が。
完全に止まっていた。
高橋結菜、11歳。
小学五年生。
目の前。
タッチプール。
魚。
泳いでいる。
係の人が言った。
「触っていいよ。」
結菜。
一歩。
下がる。
母が笑う。
「結菜、触ってみたら?」
「無理。」
「せっかく来たんやけ。」
「無理。」
「見るだけでも。」
「動くやん。」
母が言う。
「魚やけね。」
「急に来るやん。」
「魚やけね。」
結菜が。
母を見る。
「それしか言わんやん。」
母が笑った。
その隣。
一人の男が、
魚を見ていた。
松尾繁、67歳。
脇田で。
四十年以上。
漁師をしている。
帽子。
日焼けした顔。
太い指。
長靴。
繁が言った。
「怖いん?」
結菜が見る。
知らないおじさん。
「怖くない。」
「じゃあ触れば。」
「嫌なだけ。」
「同じやろ。」
「違う。」
繁が笑った。
「そうね。」
結菜は。
少しだけ。
繁を睨んだ。
午前10時44分。
繁が。
タッチプールの横にしゃがむ。
手。
水へ。
魚が。
逃げる。
繁が言った。
「ほら。」
結菜。
少し近づく。
「何。」
「魚の方が逃げる。」
「今はね。」
「今も後も。」
「急に噛むかもしれん。」
繁が笑う。
「こいつは噛まん。」
「何で分かるん。」
「魚やけ。」
結菜が言う。
「お母さんと同じこと言う。」
母が吹き出した。
繁も笑った。
結菜は。
魚が嫌いだった。
正確には。
食べるのは嫌いではない。
刺身。
寿司。
唐揚げ。
好き。
でも。
魚の形になると。
嫌。
目。
鱗。
口。
ヒレ。
骨。
全部。
「魚」になる。
スーパーでは。
切り身。
家では。
皿。
給食では。
骨のないフライ。
だから。
結菜にとって。
魚は。
最初から。
食べ物だった。
海を泳いでいる時間なんて。
あまり。
考えたことがなかった。
繁が聞く。
「魚食べる?」
「食べる。」
「何が好き。」
「サーモン。」
「出た。」
「何が。」
「子どもは大体サーモン。」
「おいしいやん。」
「おいしいね。」
「じいちゃんも好きなん。」
「じいちゃんじゃない。」
「じいちゃんくらいやん。」
繁が笑った。
「67。」
「じいちゃんやん。」
「まあね。」
繁が。
一匹を指す。
「これ何か分かる?」
結菜。
見る。
「魚。」
「それは分かる。」
「知らん。」
「アジ。」
「これが?」
「そう。」
結菜。
少し。
顔を近づける。
「スーパーと違う。」
「スーパーのもこれ。」
「でも、こんなんやない。」
「切っとるけね。」
結菜。
黙る。
魚。
泳ぐ。
繁が言う。
「アジフライ好き?」
「好き。」
「それ。」
結菜。
また。
魚を見る。
「これが?」
「これが。」
少し。
間。
結菜が言う。
「何か嫌やね。」
母が聞く。
「何が?」
「食べにくくなる。」
繁は。
笑わなかった。
「そうね。」
それだけ。
午前11時02分。
漁船クルーズ。
母が。
乗ってみようと言った。
結菜。
少し迷って。
乗った。
繁も。
スタッフとして。
同じ船。
エンジン。
音。
岸。
離れる。
風。
結菜の髪。
顔にかかる。
母が写真。
「こっち向いて。」
「今無理。」
「何で。」
「髪。」
「押さえり。」
「両手使っとる。」
手すり。
ぎゅっと。
繁が近くで言う。
「怖いん?」
結菜。
「これはちょっと怖い。」
「正直やね。」
「魚よりはいい。」
「魚かわいそうやね。」
結菜が笑った。
沖。
少し。
海が広くなる。
岸から見た時より。
何もない。
空。
海。
船。
繁が。
海を指す。
「あの辺。」
結菜が聞く。
「何。」
「朝、魚とる。」
「何時?」
「日によるけど、早いよ。」
「何時。」
「三時とか。」
結菜。
「夜やん。」
「朝。」
「三時は夜。」
「漁師は朝。」
「勝手やね。」
繁が笑った。
結菜が聞く。
「いっぱい取れるん?」
「取れる日もある。」
「取れん日は?」
「ある。」
「何も?」
「ほとんど何もない日も。」
「それでも行くん?」
「行く。」
「何で。」
繁。
海を見る。
「仕事やけ。」
結菜が言う。
「それだけ?」
繁。
少し考える。
「それだけで十分やろ。」
結菜には。
まだ。
よく分からなかった。
午前11時19分。
船。
少し揺れる。
結菜が。
手すりを掴む。
繁が言う。
「海、毎日違うよ。」
「何が。」
「全部。」
「同じ青やん。」
「今日と昨日でも違う。」
「分かるん?」
「四十年見よるけ。」
結菜。
海を見る。
青。
波。
光。
自分には。
全部。
同じに見える。
「私には分からん。」
繁が言う。
「そりゃそうよ。」
「何で。」
「今日初めて見たんやろ。」
結菜。
少しだけ。
黙る。
午前11時41分。
港へ戻る。
船を降りる。
母が言う。
「ご飯食べようか。」
漁師飯。
魚。
味噌汁。
ご飯。
結菜。
箸。
止まる。
母が聞く。
「どうしたん。」
「何か。」
「うん。」
「さっきの見たけ。」
魚。
少し。
食べにくい。
繁が。
少し離れたところを歩いている。
結菜が呼ぶ。
「じいちゃん。」
繁。
振り返る。
「じいちゃんじゃない。」
「これ。」
結菜が。
魚を指す。
「今日とったやつ?」
繁が。
皿を見る。
「多分ね。」
「朝三時?」
「もっと後かも。」
結菜。
魚を見る。
繁が聞く。
「食べれん?」
結菜。
少し考える。
「食べる。」
一口。
噛む。
母が。
何も言わず見る。
結菜が言う。
「おいしい。」
繁が答える。
「そう。」
それだけ。
午後0時16分。
もう一度。
タッチプール。
帰る前。
結菜が。
自分から寄った。
母が聞く。
「触るん?」
「まだ分からん。」
繁は。
別の家族に。
魚の説明をしている。
結菜。
プール。
しゃがむ。
手。
伸ばす。
止める。
魚。
近づく。
結菜。
手を引く。
「やっぱ無理。」
母が笑った。
「いいよ。」
少しして。
また。
手を出す。
指先。
水。
魚。
一匹。
近づく。
結菜。
息を止める。
魚が。
指の近くを。
すっと通った。
触れたのか。
触れてないのか。
分からないくらい。
結菜が。
ぱっと手を上げる。
「今、触った?」
母が言う。
「多分。」
「多分って何。」
「見えんかった。」
結菜が笑う。
その時。
繁が来た。
「触れた?」
結菜。
「多分。」
「そう。」
「もっと褒めてよ。」
繁が笑う。
「何を。」
「触ったんよ。」
「魚に?」
「うん。」
繁が。
魚を見る。
それから。
結菜を見る。
「魚も触ったやろ。」
結菜。
一瞬。
考える。
「私を?」
「うん。」
「魚から?」
「そう。」
結菜。
魚を見る。
一匹。
水の中。
泳いでいる。
「向こうも怖かったんかな。」
繁が答える。
「知らん。」
「漁師なのに?」
「魚の気持ちまでは分からん。」
結菜が笑った。
午後0時34分。
帰る。
駐車場。
母。
袋。
中には。
買った魚。
結菜が聞く。
「それ、何。」
「アジ。」
結菜。
少し。
顔をしかめる。
「今日食べるん?」
「どうしようか。」
「アジフライ?」
「できるよ。」
結菜。
少し考える。
「じゃあ。」
歩く。
三歩。
止まる。
「お母さん。」
「何?」
「切る前、
一回見せて。」
母が。
結菜を見る。
「魚を?」
「うん。」
「怖いやろ。」
結菜は。
少しだけ。
海を見る。
さっき。
船から見た海。
朝三時。
知らないところで。
漁師が船を出す。
魚が泳ぐ。
網。
港。
皿。
それから。
自分。
「怖いけど。」
結菜が言う。
「どんなやつか、
見ときたい。」
母が笑った。
「分かった。」
二人で。
また歩く。
後ろ。
港。
繁は。
もう。
次の子どもに。
魚の名前を教えている。
結菜は。
魚を好きになったわけではない。
まだ。
ちょっと怖い。
触るのも。
できれば嫌。
でも。
今日から。
アジフライを見るたび。
少しくらいは。
思い出す。
海で。
ちゃんと。
生きていたことを。
