
〈無料あり〉#23 船長になりたかった男の子
- 割引あり
赤い灯りの下で、いつか舵を握るはずだった。
魚の来なくなった海が、俺を陸に上げた。恨む相手も教えずに。
港を見下ろすバーから見えるはずの海は、ブラインドで塞がれたままだ。
港のどこかで、汽笛が低く2度鳴った。
8月の釧路は、夜になると晩秋のように冷える。
川をのぼってきた海霧が、窓の外の街灯をひとつずつ呑みこんでいく。
グラスを拭く手を止めて、灯りを一段落とした。
琥珀色の光が、一枚板のカウンターに沈む。
人は、少し暗いくらいの灯りに寄ってくる。
7つの椅子に、上着を脱がない船主たちの背中。
明日0時、サンマ漁が解禁になる。その前祝いだ。
「今年も、近くには来ないらしいな」
俺は奥へ下がって、グラスを洗った。
霧の流れが速い。
夜半には切れるだろう。
港側のブラインドは、店を開けた日から一度も上げていない。
酒棚の端で、ボトルが1本、埃をかぶっている。
三陸の老いた漁師のものだ。
毎年、漁期になると、船が港に入るたびに来て、ひび割れた手でグラスを包んだ。
初日には決まって「今年も頼むよ」と言った。
その漁師が来なくなって3年。
店の決まりで、ボトルは明日片付ける。
下げられた名札の文字を、指でなぞった。
23時過ぎ、船主たちが引き上げた。
扉の鈴が鳴る。
折り目のついたままの作業着。
二十歳そこそこの若者が、霧で濡れた前髪を払い、かじかんだ手をこすった。
「ええと、じいちゃんのボトル、まだありますか」
あのボトルの名札と同じ名字だった。
祖父が降りた船に乗って、三陸から回ってきたらしい。
明日が初めての漁だという。
埃を拭い、1杯つくった。
「千キロ以上も沖へ出るんです。白い灯りで集めて、最後に赤に切り替えて」
「網の上に、寄せる」
俺の口が、先に答えていた。
若者が顔を上げる。
俺は黙って、氷を足した。
白から赤へ。あのスイッチの硬さを、指がまだ覚えている。
俺は根室で生まれた。
父を早くに亡くした俺を、父の幼なじみのサンマ船の船頭が気にかけてくれた。俺はその人を「親父さん」と呼んだ。
解禁の0時、母のコートにくるまって岸壁に立った。
エンジンの音が腹に響く。
灯りをともした船が、霧の中へ1隻、また1隻と出ていく。
いちばん明るい船の操舵室に、親父さんの影があった。
あそこに立つ。7つの俺は、そう決めた。
高校を出て、親父さんの船に乗った。
二十歳の秋、千島の沖。波しぶきが顔に刺さる夜だった。
探照灯が黒い波をなめていく。
銀色が跳ねた。
「止めろ!」
右舷の白い灯りを、いっせいにともす。
昼のような光の中に、群れが浮いてくる。
網を沈めた左舷に灯りを移し、右舷の灯りを消していく。
光に追われ、群れが網の上へ回りこむ。
親父さんが、あごをしゃくった。
「やってみろ」
スイッチを倒す。
海が赤く染まり、その下で銀色の背中がいっせいに盛り上がった。
「揚げろ!」
綱をたぐる。
網がふくらみ、甲板にサンマがなだれこむ。
凍える沖で、男たちの背中から湯気が立った。
親父さんは俺を見て、黙ってうなずいた。
船長の資格を取った年、親父さんは言った。
「この船は、いずれお前に」
うれしくって、照れくさくって、うなずくだけだった。
だが、サンマは近くに来なくなった。
海が温まり、群れは沖へ逃げた。
沖では、外国の大きな船が先に獲っていく。
魚倉の底が見えたまま、港へ戻る日が続いた。
親父さんは貯金を崩して、給料を払った。
その秋、遠い沖で、よその港の船がひっくり返った。
雪の岸壁で、親父さんは、船を手放すと言った。
「いずれ俺にって言ったじゃねえか。借金ごと、俺が継ぐよ」
親父さんは背を向けたまま、首を振った。
「あいつの息子を、獲れない海に縛りつけられるか」
肩に、雪が積もっていく。
何も言い返せなかった。
売られる前の晩、ひとりで操舵室にのぼり、赤い電球をひとつ外した。
翌朝、親父さんは空いたソケットを見上げ、何も言わなかった。
船は、売られた。