メインコンテンツへスキップ
見出し画像

痛みは消えない。それでも、嬉しかった。

    私は幼い頃から、よくお腹を下す。

    小学校でも中学校でも、ストレスが限界に達すると、お腹が痛くて歩けなくなった。

    保健室のベッドで横になり、ただ痛みが治まるのを待っていたことを思い出す。

    学校でいじめられたり、周囲に気を遣いすぎたり、やらなくてもよいことにこだわったり。

    私はいつも、自分で自分を追い込んで、最後には倒れてしまう。

    大人になった今も、それはあまり変わらない。

    お寺は、自宅であり、職場でもある。

    休んでいるつもりでも、頭のどこかで仕事のことを考えている。

    子どもの世話をしている最中に、葬儀の連絡が入る。

    葬儀を終えて帰宅すれば、今度は子どもたちが待っている。

    「生」と「死」が、同じ一日の中に混ざり込んでいる。

    お檀家さんに気を遣い、家族に気を遣い、子どもにまで気を遣う。

    そして最後には、「もっとできたはずだ」と自分を責める。

    誰かの感情も、誰かの言葉も、時には自分自身の声さえも、すべてノイズに感じる日がある。

    何も考えたくない。

    誰の声も聞きたくない。

    それでも、日常は待ってくれない。

    そんな私に、子どもたちは絵や工作を持ってきてくれる。

    一生懸命に描いた「ちいかわ」の絵。

    幼稚園で作ってきた「マイクラ」の工作。

    「どうして作ったの?」

    そう尋ねると、

    「パパのため」

    と答える。

    私はその言葉に、何度も驚かされる。

    自分のことで精一杯になっている私を、子どもたちはちゃんと見ているのだ。

    先日、体調を崩して寝込んでいたときも、子どもが工作を持ってきてくれた。

    「元気になりますように」

    そう言って、おまじないをかけて渡してくれた。

    私は僧侶だが、おまじないで病気が治るとは思っていない。

    祈りは、医療の代わりにはならない。

    どれほど強く願ったところで、苦しみが消えるとは限らない。

    実際、私のお腹は相変わらず痛かった。

    それでも、子どもの願いが私に届いたことだけは確かだった。

    体調は悪い。

    でも、ちゃんと嬉しいのだ。

    痛みは消えていない。

    身体は相変わらず苦しい。

    それなのに、さっきまでとは少し違う景色が見えている。

    子どもは私の病気を治そうとしてくれた。

    その願いが叶ったわけではない。

    けれど、叶わなかったからといって、その願いまで無意味になるわけではないのだと思う。

    世の中には、言葉があふれている。

    聞きたくもない言葉。

    見たくもない映像。

    善意でかけられた言葉に傷つくこともあれば、何気ない一言が、いつまでも頭から離れなくなることもある。

    私自身、そんな言葉に疲れ果て、何も聞きたくなくなる日がある。

    誰かの言葉を受け止めることも、自分の気持ちを言葉にすることも、嫌になる。

    それでも、子どもの「元気になりますように」という小さな言葉が、私の一日を変えてくれた。

    あの子は、私に何かを教えようとしたわけではない。

    正しいことを言おうとしたわけでもない。

    ただ、元気になってほしかったのだと思う。

    その願いが、苦しんでいた私に届いた。

    言葉は人を傷つける。

    言葉は人を追い詰める。

    けれど、言葉に託された願いに、救われる瞬間がある。

    私は言葉が憎い。

    それでも、言葉がないと生きていけない。

     
     
    「普通」になれなかった僧侶です。 発達障害のある子ども(ADS)を育てながら、生きづらさ、死や別れについて書いています。 親も子どもも上手になんて生きられない。 割り切れない日々を、言葉に残していきます。

    あなたへのおすすめ