
ヘイトスピーチ規制をまともな制度にするのは容易ではない
参政党の神谷さんの東大五月祭参戦をめぐる爆破予告や行事中止などを経て、あらためてヘイトスピーチ規制が盛り上がっている。ネットは何でも燃料にして盛り上がるのだけれど、正直、いずれの陣営も小学生の「バーカ」「バカ言うやつがバカ」というバカ合戦を超えることはないのが実に香ばしい。なぜ、いい大人が言論空間でバカ合戦をしているのか、考えてみた。
「バカ合戦」の構造
D_A=ラベリング側のコスト、R_B=標的側の利益、とすると、「ヘイトスピーチに表現の自由はない」の絶対化は、R_B(標的側の実際の救済利益)が有界であるにもかかわらず、ラベリング競争において各プレイヤーが「相手に先にラベルされれば負け」という死活的利害を認識する状況を生む。
SNSでは「負け」=コミュニティからの追放やアイデンティティの否定という複合的損失が一度に生じる。
一度「ヘイト」レッテルを貼られた側は、以降の発言が全て「ヘイト発言者の弁明」と読まれるというスティグマ効果(一言でいうと「エンガチョ」的な効果。ね、小学校でしょ)が、負けのコストを爆発的に大きくする。
このとき、主観的にはR_Bが∞に近い効用として認知され、結果としてD_A→0(ラベリングへの抑止力欠如)と相まって濫用的ラベリングが支配戦略となる。
最初に真面目だったAも、次の相手に対しては「先にラベル貼らなければ負ける」と学習する。
これがラベリングの伝染による濫用の支配戦略化。
つまり、小学生の「バーカ」「バカ言うお前がバーカ」というバカ合戦と同型なのである。
制度設計への示唆
この非公式な場でのラベリング競争の圧力は、法的申立てや通報制度を通じて規制制度の運用にも波及しうる。
そのため、規制制度の設計には「濫用的ラベリングのD_Aを十分に高く保つ仕組み」が不可欠である。
小学校では「バーカ」という生徒をきつくしかる先生がいる。
これは濫用が始まる前に制止するという意味で有効なのである。
現代のSNS上の言論空間がなぜ劣化するのか、ということを考えると、事後的な救済ではなく、このような最初の萌芽を摘み取る方法の方が有効だろう、と言いたくなる。だがここは踏みとどまって「でもね」という話である。
言論空間に担任の先生はいない。
言い換えると、「先生」の権威が正当に機能する小学校と、権威の正当性が合意されていないSNS空間では、前提が根本的に異なるのである。下記の河野の意見はこの問題構造を適切に言い当てている。
河野有理 @konoy541 のポスト:
中立的・形式的な規制ならともかく、「何がヘイトか」という内容的な判断においては(それが他者の人権を制約する規制を伴うのであればなおさら)結局多数派の意向を無視できない。少数派を守るためのヘイト規制という発想はそこを見逃しがちである。
結論
結局のところ、「ヘイトスピーチ規制」という枠組みで考える限り、クリアな答えはないのである。じゃあどうすればいいかって?
難しいって言ってんじゃん。