
モネとセザンヌを混ぜてはいけない
久しぶりに、国立西洋美術館の床を歩いた。
美術に触れたかった。
しばらく触っていなかったものに、少しだけ手を伸ばしたかった。
白い壁。
額の影。
床に返る靴音。
静かな展示室を歩いて、モネの絵の前に立った。
輪郭が、ほどけていた。
水面も、花も、空も、どこからどこまでが何なのか、はっきりしない。
近づくと、絵の具がある。
けれど、少し離れると、そこに光があった。
ものではなく、光。
形ではなく、揺れ。
目を向けたそばから、もう少し変わってしまいそうなもの。
モネは、形を手放していた。
そのかわりに、光が残っていた。
そのあと、セザンヌの絵の前に立った。
目の焦点を、少し合わせ直すような感じがした。
りんごがある。
壺がある。
テーブルクロスが、重たそうに折れている。
形は、少しずれている。
けれど、不思議と弱くない。
りんごは、そこにある。
壺も、そこから動かない。
いくつもの視線が重なっているように見えるのに、画面は崩れない。
むしろ、重い。
私は、セザンヌのりんごを見ながら、これは果物ではなく、重さなのかもしれないと思った。
モネでは、光が動いていた。
セザンヌでは、ものがそこに踏みとどまっていた。
私は、その違いが好きだった。
だから、何度も2つの部屋を行ったり来たりした。
モネを見る。
光がほどけている。
セザンヌを見る。
形が沈んでいる。
またモネへ戻る。
またセザンヌを見る。
そのたびに、目の奥に残るものが変わった。
そこで、妙なことを考えた。
この2つを混ぜたら、どうなるのだろう。
モネの光。
セザンヌの構造。
どちらも美しい。
だったら、両方あればもっといいのではないか。
私は、そんなことを考えた。
考えてみれば、昔からそうだった。
あの人の自由さがほしい。
この人の緻密さもほしい。
ひとりで歩きたい。
でも、誰かにわかってほしい。
自分にないものは、よく見える。
手に入れたら、もっとよくなるような気がする。
けれど、本当にそうだろうか。
モネの光に、セザンヌの構造を足す。
セザンヌの形に、モネの光を足す。
それは、2人のよいところを合わせることなのだろうか。
もしかすると、どちらのよさも壊してしまうのではないか。
モネの光は、形に縛られないからこそ、あれほど自由なのかもしれない。
セザンヌの形は、光に溶けないからこそ、あれほど強いのかもしれない。
足りないから、補う。
違うから、混ぜる。
それは、いつも正しいわけではない。
人間についても、同じことを考える。
自由な人に、緻密さを求める。
緻密な人に、自由さを求める。
自分とは違う誰かを見て、その人のよさを認める。
ところが、いつの間にか、その人を自分の理解できる形に近づけようとしている。
自分の中に取り込もうとしている。
相手のよさを認めることと、相手を自分のものにすることは違う。
違うままでいい。
むしろ、違うままでなければ見えないものがある。
私は、また絵の前に戻った。
モネは、形をほどいていた。
セザンヌは、形を残していた。
どちらかが足りないわけではなかった。
どちらかが、もう一方に近づく必要もなかった。
それぞれが、自分の見ている世界を描いていた。
展示室を出る前に、もう一度モネを見た。
そのあと、セザンヌも見た。
どちらかを最後にしたくなかったのかもしれない。
モネはモネのまま、光のほうへ行っている。
セザンヌはセザンヌのまま、形の奥へ沈んでいる。
交わらない。
それでも、どちらも弱くならない。
美術館を出た。
外の光が、少し違って見えた。
歩道も、建物も、通り過ぎる人の顔も、そこにあった。
光があれば、形はいらない。
形があれば、光はいらない。
そういうことではない。
光と形は、互いの代わりにはならない。
人も同じなのだと思う。
誰かのよさを見つけたとき、自分と同じにしようとしなくていい。
自分にないものを、無理に自分の中へ取り込まなくてもいい。
違うものは、違うままでいい。
混ぜないからこそ、見えるものがある。
モネとセザンヌは、混ざらない。
だから私は、また2つの部屋を行ったり来たりしたくなる。