
声をかけなかった朝
道の端を、小さな背中が歩いていた。
もう、登校時間は過ぎている。
ランドセルが、少し重そうに揺れていた。
靴の音だけが、朝の道に遅れていた。
とぼとぼ。
そういう歩き方だった。
「とぼとぼ」という言葉は知っていた。
作文の中で使ったこともある。
でも、その音が足に重なることはなかった。
その子は、急いでいなかった。
遅刻しているのに、走らない。
走れないのかもしれない。
走りたくないのかもしれない。
どちらでもないのかもしれない。
ランドセルの肩ひもを少し直して、また歩く。
足元を見る。
少し先を見る。
また足元を見る。
えらいな、と思った。
学校に向かっている。
もう時間は過ぎているのに。
教室では、もう朝の時間が始まっているはずだった。
チャイムも鳴っただろう。
先生の声も聞こえているだろう。
声をかけたくなった。
大丈夫だよ。
行くだけでえらいよ。
そんな言葉が、喉の手前まで来た。
でも、言わなかった。
知らない大人の声は、朝の道では少し大きすぎる。
その子の歩幅を、こちらの言葉で変えたくなかった。
ただ、少し離れて見ていた。
すると、その子がふいにこちらを見た。
ほんの一瞬だった。
目が合った、というほど長くはない。
でも、私が見ていたことは、たぶん伝わった。
その顔を見たとき、思い出した。
私も、そうだった。
行き先を変えた朝
朝の道を歩いていた。
学校に向かうふりをしていた。
ランドセルを背負って、決まった角を曲がる。
いつもの道に入る。
でも、途中で行き先を変えた。
市立図書館へ行った。
入口の自動ドアが開く音。
少し冷えた空気。
本の匂い。
閲覧席の椅子は、いつも少し冷たかった。
誰も、大きな声で理由を聞かなかった。
私はそこで、時間が過ぎるのを待った。
勉強したわけではない。
前向きな避難場所だった、と言うほどきれいなものでもない。
ただ、学校ではない場所に、机と椅子と沈黙があった。
学校へは行かなかった。
でも、足は止まっていなかった。
図書館の閲覧席まで、ちゃんと私を運んでいた。
あのころの私は、玄関であまり振り返らなかった。
台所で止まった包丁の音も、聞こえていなかった。
聞こえていたのかもしれない。
でも、その音の意味までは知らなかった。
目の前の子は、学校へ向かっている。
私は、途中で行き先を変えた。
その違いだけだった。
朝の道で見た小さな背中が、角を曲がっていく。
ランドセルが揺れる。
靴の音がする。
とぼとぼ。
その言葉を、私は昔から知っていた。
けれど、あの日までは知らなかった。
私は、しばらくその背中を見ていた。
声はかけなかった。
ただ、心の中で少しだけ言った。
行ってらっしゃい。
その声は、口の中に残ったままだった。