
待つ時間 - 片側交互通行
男は十一日続けて夜勤に入っていた。
白い手袋は三組目だった。誘導灯の電池は二度替えた。黒い安全靴だけは、十一日前と同じだった。
十一日目の現場は内幸町だった。
男は白いヘルメットをかぶり、反射ベストの前を留めた。濡れた路面では、赤い誘導灯が腕より長く伸びていた。
公園の奥から、乾いたドラムが聞こえた。
ボレロだ、と男は思った。
名前を知っている曲は、それほど多くなかった。
*
道路の中央を百メートルほど掘り、水道管を交換する。男と若い誘導員が両端に立ち、車を片側ずつ通す。
「俺、向こうにいます」
若い誘導員は無線機を胸につけ、反対側へ歩いていった。二人はその夜が初対面だった。
通りの向かいに、八席の寿司屋があった。
最初に来たのは、三十代の終わりくらいの女だった。紺色の上着に白いシャツを着て、左手には細い指輪があった。
三分後、十歳ほど年上の男が入ってきた。
「待った?」
「私もいま来たところです」
女は敬語を使い、男は使わなかった。
*
親方は鯛に包丁を入れた。白い身に、薄い桃色の筋が残った。
鯛は朝に締めたものだった。鮪は六日寝かせ、小肌はその日の脂を見て塩の時間を変えた。親方は魚に手間も金も惜しまなかった。
それでも職人には、いつも同じことを言った。
「ネタはよくて当たり前だ。寿司のうまさは、八割がシャリで決まる」
店には六人の職人がいた。七十二歳の親方は、その日を最後に店を退く。翌週からは二番手が中央に立つ。屋号も、値段も、米を届ける店も変わらない。
変わるのは、中央に立つ人間だけだった。
親方は鯛を握った。
シャリは人肌より少し温かく、赤酢の香りがした。女が一貫を口に入れると、米が先にほどけ、遅れて鯛の甘みが残った。
隣の男は、その横顔ではなく、親方の手を見ていた。
*
午後八時五十分、切削機が路面を削り始めた。
男は誘導灯を横にした。
「こちら止めました。どうぞ」
白いバン、銀色の乗用車、黒い軽自動車が来た。
男は車を止めた。車を通した。
赤い棒を横にした。縦にした。
*
午後九時四十七分、切削機が止まった。
そのあとで、ドラムが聞こえた。同じ強さの音が、同じ間隔で続いていた。風が吹くたび、旋律は近くなったり遠くなったりした。
「ボレロですね」
寿司屋の若い職人が、空の酒瓶を抱えて立っていた。まだ魚に包丁を入れさせてもらえない職人だった。
「ずっと同じですね」
「少しずつ大きくなる」
「詳しいんですか」
「名前を知ってるだけです」
店の中から呼ばれ、若い職人は引き戸を開けた。
親方の声が、一瞬だけ路上へ漏れた。
「昔は、自分に握らせてくれって、そればかり考えてた」
戸が閉じた。
男は誘導灯を横にした。
*
「早く魚に触りたい。早くカウンターに立ちたい。客に自分の寿司を食わせたい。そう思ってた」
洗い場の水が止まった。
「そう思わなきゃ、包丁なんか覚えない。でも、店に自分の寿司なんてものはない」
*
楽器が増えていた。
男は止めた。通した。また止めた。
ドラムは同じ速さで鳴っていた。
白い乗用車が、誘導灯を見ても速度を落とさなかった。男はもう一歩、車道へ出た。
車は男の膝から二メートルほどのところで止まった。
「行けないの」
「向こうから大型が来ます」
観光バスが工事区間を抜けた。白い車が急に動き、左のミラーが誘導灯の先に当たった。
赤い樹脂の筒が、路面で二度跳ねた。
車は止まらなかった。
「大丈夫ですか」
「当たったのは棒だけです」
男は予備の誘導灯を受け取った。スイッチを入れると、また赤い光がついた。
ボレロは続いていた。
*
「米を炊く者がいる。魚を洗う者がいる。火を見る者がいる。器を洗う者がいる」
親方の声は大きくなっていた。
「客の前に出るのは一貫だ。握った人間の名前は出ない。それでいい」
親方は二番手を見た。
「俺に握らせてくれ、で入った人間が、最後には、俺たちで出します、と言えるようになる。それが店だ」
二番手は頭を下げた。
「月曜から、お前が真ん中に立つ。ただし、真ん中が店じゃない」
親方はそこで話を切った。
「穴子を出そう」
洗い場の水が、また流れ始めた。
*
最後の穴子を、親方と二番手が三貫ずつ握った。
穴子は煮上げたばかりで、刷毛で引いた煮詰めがまだ艶を残していた。口に入れれば、舌の上で形がなくなるほどやわらかかった。
女には親方のものが置かれ、隣の男には二番手のものが置かれた。どちらが握ったものか、客には知らされなかった。
拍手が起きた。狭い店の壁と天井に当たり、思ったより大きな音になった。
親方は困ったように眉を下げた。
野外音楽堂のボレロも、最後の音へ向かっていた。
曲は一度、大きく形を崩した。
そして終わった。
女の隣にいた男が、先に暖簾をくぐった。女は少し遅れて店を出た。二人は三歩ほど離れ、公園の方へ歩いていった。
*
午後十一時十五分、寿司屋の灯りが消えた。
職人たちが出てきた。最後に、濃紺の背広を着た親方が出てきた。六人は頭を下げ合い、二つの方向へ分かれた。
若い職人が道路を渡ろうとした。
男は手を上げた。
「少し待ってください」
一台のバンが通り過ぎた。
男は誘導灯を縦にした。
「どうぞ」
若い職人は小走りで渡り、一度頭を下げた。
*
午前四時三十八分、官庁に残る灯りは三つになった。
男は車を止め、通し、また止めた。
空車のタクシー。新聞を積んだトラック。パンを運ぶ白いバン。
無線が鳴った。
「こちら止めました。どうぞ」
暗い通りの向こうから、工事車両が一台、ゆっくりと進んできた。荷台には、剥がされたアスファルトが黒く積まれていた。
公園の木々の上が、薄い灰色に変わり始めていた。
男はそれを通した。