
大人への味覚の壁 ~醤油から塩へ~
「おこちゃまの味覚だね~」
ちょっと悪戯っぽくからかわれるときに使われるセリフ。苦いコーヒーが飲めなかったり、度数の高いお酒が飲めなかったり、甘い味しか食べられなかったりしたとき、たまに言われる。
もちろん、強要されたりマジに言われたりするのではない。あくまでからかわれるだけ。味覚についても子供の世界、大人の世界があるからなんだよね。誤解なきよう書いておけば、どちらが正しいとか望ましいとかいうことではない。ただ、大人の味覚の壁がある、というだけである。
ついこないだ、感じたことがあってね。それが、
大人の味覚への階段を登れば、そこに塩がある
ということ。ほら、酒飲みで言えば、「塩」だけで呑めるのは大人だ、みたいな風に言われるやつ。本当の酒飲みは塩だけで呑むとまことしやかに言われ、そしてそれが事実でもある。
そんな大人の味覚への階段を登ることは、なんかよくわからんけど楽しい。もしかすると、からかわれる側からからかう側へ移動できるから、とかかな?(笑)、そんなしょーもない理由ではないか。こう、超えにくい壁を超えた自分を見ることができた!みたいな、ささやかな自己実現は生きている証を感じさせてくれるんだな。
もう少し具体的に書こう。醤油は旨味と塩分が合わさったもの。日本料理の多くに使われ、さまざまな醤油が存在する。かたや塩も同じ、いろんな種類が存在する。ところが醤油と塩の間には決定的な差も存在する。
それが、旨味の違い&塩味の感度の違い だ。醤油の入れ過ぎは多少我慢できたとしても、塩の入れ過ぎはすぐに致命傷になる。大抵の人はそう感じる。ところが一部の人にとっては、塩の入れ過ぎでさえも多少は我慢(というか慣れ)できる人達がいる。それが味覚の大人だ。
彼らは塩っ辛い状態を知覚しつつもそれを拒絶するのではなく、周りの旨味と塩っ辛いのを融合させて知覚させることが得意となっている。だから酒飲みが塩だけで呑めるんだよ。あれば、塩が酒に含まれる旨味を感覚知覚的に融合させ、旨味を極端に感じさせることができる口を持っているからに他ならない。
でも普通の人がこれを聞き、実際にやってみたところで、「おーすげー!そうなのか(@v@!」とはなかなかならない(笑)。よくわからないというか、やっぱわからんとか、そんな感じになるんだ。この状態は味覚がまだ子供の状態であることを意味すると思う。
じゃぁどうやったら大人の味覚になれるのか。大人への味覚の壁を越えられるのか。
私も長年子供の味覚の中で生きてきたけれど、ここ10年くらいでなんとなくわかったことは、
旨味の存在を 塩の立場から見て 両方の存在を立てるような知覚を憶えること
のような気がするんだよね。
ちょっと例えは良くないかもだけど、初めて顔を合わせる犬がいたとしてその犬と仲良くなりたいとする。ただその犬は攻撃的で、頻度高く噛んでくる。犬にしてみれば本気で噛みにくるのではなくじゃれているんだ。そんな犬と仲良くなりたいと、手を出して撫でようとすると噛みつかれる。そこで噛みつかれた手を引っ込め、噛まれることを嫌がり、犬を撫でる手が尻込みをしてこわばったようになってしまうこと、これが子供の味覚なんだと思う。犬の方が強いんだ。そして犬は塩だ。
ところが、噛まれたときにも手を引かず、むしろ手を口の中に突っ込むようにすれば犬は一目置く。噛んでいるのにこいつは逃げないどころか向かってきやがる! 犬がそう感じた段階で心が通じ合い始め、犬が自分を認めるようになり、自然と撫でられるようになる。その撫でる手にはもうぎこちなさはなく、たとえ噛まれてもいいよ、という覚悟と安心感を犬に与えているからだ。
大人の味覚への壁を超えるには、この犬の噛み方に腕を突っ込むことができるか?にかかっていると思う。痛い(辛い)んだよ、噛まれている間は。つまり、塩が辛い状態に引かずにその辛味に向き合い、その中に何があるのか、旨味をどう融合させていくのかの状態に慣れないといけないんじゃないかなってね。これができたら大人の味覚への階段を登ったことになる。
大人の味覚への階段。別に登らなくても楽しく生きていけるけど、ちょっと意を決して登ってみても面白いかもしれないよ。味覚って生命の存続に本能的に関わっている大きな感覚だから、ヤバイ!と思ったら拒否するようにできている。でもその本能の拒否をぐっと抑えたその先に大人の味覚が味わえる体験が待っているとしたら、多少噛まれてもいいような気がします😅
さぁ、明日は何を試そうか。