
お題 月を見る【シロクマ文芸部】
月を見る意味を教えてくれたのは、大好きな母だった。
厳しく、優しいあの人の声。
避けて、逃げて、
そして、ずっと聞きたかった、声。
耳の中で木霊する。
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二階建ての小さな家が並ぶ、石畳の道。
至るところに灯る提灯。
道に無造作に置かれたスクーターに、パイプ椅子。
あちこちから届く、にぎやかな声と茶葉の香り。
(あぁ……、懐かしい)
幼いころの記憶がよみがえる。
住み慣れた、でも何年も昔の記憶。
「ママ」
隣には、5歳になったばかりの娘。
私の手をぎゅっと握る娘は、飛行機を降りるまでずっとびくびくしていたのに、もう目をきらきらさせている。
「ママ、ここどこぉ?」
「おばあちゃんの住んでいるところだよ」
母と二人で過ごした神農街。
16年ぶりだ。
これはなあに?
あれはなあに?
娘は好奇心を抑えきれないように、私を質問攻めにする。
見るものすべてが新鮮なようだ。
私も鼓動が早くなる。
娘とは違ったドキドキだ。
あの角を曲がると、母の住む家。
きっと、
家の横にあるガレージを開けて、机や椅子を並べているだろう。
想像に出てくる母は16年前のままだ。
夢があった。
反対する母や親族を説得することなく、この身一つで飛び出した。
「異国の地で店を持つなんて甘えた考えだ」
母の言葉。
それをすぐに実感することになった私は、
台湾に戻ることも、母に連絡することも、その夢さえも、何年も諦められず、
時間だけが過ぎていった。
家庭を持ち、娘が生まれた。
去年やっと、小さな店ではあるが、開くことができた。
手作りの雑貨を売っている。
主人に背中を押され、震える手で母に連絡できたのは、
つい先週のことだ。
「中秋節に顔を見せに帰ってきなさい」
記憶の声より、少ししゃがれた声で言ってくれた。
話したいこと、謝りたいことがたくさんあった。
何を話そうか、何度も考えていたのに、
言えた言葉は、
「うん、娘と一緒に行くから」だけだった。
あと50メートル、30メートル、20、10……
鼓動が大きくなる。
「あぁ……。」
目に映る。
パイプで組み立てられた机と椅子。
その横には、たくさんの炭と焼き網が置かれている。
少し奥まったところには整えられた木の机。
見なくても並べられているものは分かる。
月餅に、文旦、それと……
「あれま、円ちゃんかい?」
声がする方を見ると、懐かしい顔があった。
「久しぶりだねえ」
淑華おばさん。母の古くからの友人だ。
両手には、ビニール袋がはち切れそうなほどの野菜や果物を持っている。
「お久しぶりです」
頭を下げ、手にしていた荷物を一つ持つ。
「あら、ありがとう」
私を見た後、隣にいる娘に目を向け、にこやかに笑う。
「いらっしゃい」と言ってくれた。
「陽子さん―‼円ちゃん帰ってきたよ~」
(アッ、待って、まだ心の準備が)
私の焦りをそっちのけで、淑華おばさんは私をぐいぐいと押す。
家の奥から車いすの女性が出てくる。
あの頃の雰囲気を残したまま、少し小さく見える母。
「そんなに騒がなくても分かってますよ。」
電話で聞いた声だった。
「あの人、だあれ?」
私の手をくいっ、と引っぱる娘。
母は少し前かがみになり、
「初めまして、おばあちゃんですよ」
以前と変わらない、優しい笑顔。
「おばあちゃん?」
きょとんとする娘。
母が手を差し出すが、私の後ろに隠れ、少し警戒した目を向ける。
「あ、ごめん。この子人見知りで」
声がかすれる。
いいの、いいの、と母は笑う。
「ゆっくりしていってね」と娘に優しく声をかけた。
今日は親戚が集まるから、準備手伝いなさい。
と、野菜やら肉やらがどんどん回ってくる。
人使いが荒い。
これも昔と一緒だ。変わらない。
日本では、ススキを飾り、月見団子を並べる。
静かに月を眺め、収穫への感謝を願う。
台湾では、家族や友人が集まってバーベキューをする。
月餅や柚子を食べながら、にぎやかに月を眺める。
日が暮れるにつれ、一人、またひとりと増えていく。
知っている顔、知らない顔、誰かの披露宴パーティみたいに、にぎやかになっていく。
家族、親族、友人と過ごす慣習は、何も変わっていない。
「おばあちゃん、これなんて言うの?」
娘は、洋ナシよりも一回り大きい緑色を指差す。
「文旦だよ」
「こっちは?」
隣には、一回り小さく、黄色く丸いもの。
「柚子だよ」
「ゆず?わたしと一緒だね!」
母が私を見上げる。
「この子の名前、柚子っていうの」
ああ、なるほど、と合点がいったように頷き、
娘の頭をなでる。
「いい名前だね」
先ほど嫌がったばかりの手に触れられ、娘はすごく嬉しそうだ。
「うん!いいでしょ」と、娘はもう母に懐いている。
お腹いっぱいになり、眠たそうにしている娘を抱き上げ、
ガレージの裏手へ行く。
小さい頃の、私の特等席。
ここからは空がよく見渡せる。
少し生温かい風が吹く。
香ばしい匂いと遠くで笑う声が運ばれてくる。
月を見る。
「今夜、この月を見ているのは円だけじゃないよ」
まだ車いすに乗っていない、少し若い母が言った言葉。
「遠く離れたあの人も、同じ月を見ているよ、きっとね。」
少し寂しそうな母の横顔。
子ども心に、母を元気付けたくて
「わたしは隣にいるよ。来年も、そのあとも、ずっと一緒に見る!」
抱きしめてくれた母は、あの時、何を思ったのだろう。
(結局、約束を破ってしまった)
(ごめんも言えてない。)
毎年、中秋節には月を見上げた。
一方通行だったかもしれない。
親孝行なんて、何もできていない。
悲しい思いも、寂しい思いも、たぶん、たくさんさせた。
我儘な願いだと分かっていた。
でも
同じ月を見てくれてたらいいなと、思わずにはいられなかった。
16年も経ってしまった。
「こっちから見る月は、綺麗だろう」
振り返ると母がいた。
月明りが差す。
皺の増えた母の顔。
一人では歩くことができなくなってしまった足。
間違いなく、それだけの年月が過ぎていたのだと思い知らされる。
母が私の隣で月を見る。
「元気だったかい」
「うん」
「ちゃんと食べれてる」
「うん、……ちょっと太った」
「無理しすぎるんじゃないよ」
「……うん。」
(私の心配ばかり)
(そこも変わってないんだね。)
「今年は、月がよく見える」
「うん」
「去年は、曇ってた」
「こっちは雨だったよ」
「一昨年は、台風だった」
「すごかったよね。こっちは曇りだった」
(あぁ……。)
母の手を取る。
「……やっぱり、今年はおぼろ月だよ」
「そうかい」
月の輪郭がぼやけている。
娘が目をこすりながら私を呼ぶ。
「お月様見てるの?」
「そうだよ」
娘も同じ空を見上げる。
「わぁ!きれいな満月!まぶしいねっ」
小さな手を高く掲げ、月を指さす。
私が黙っていたせいか、不思議に思った娘が私を見上げる。
「ママ、これつかっていいよ?」
娘がポケットから取り出し、差し出す。
刺繍の入ったハンカチ。
そこには私が縫った満月があった。
#シロクマ文芸部
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