メインコンテンツへスキップ
見出し画像
Photo bytarohanamana

教育は「結果」で測られ、現場は「責任」だけを引き受ける――教育現場にある、組織の違和感

    教育現場に与えられている使命は、結局のところ明快だ。
    入ってくる子どもたち、生徒、学生を、「できなかったことができるようになる」方向へ導くこと。私はまずこの前提に立って、日々の教育を見ている。

    ところが、街を歩くと別の現実が目に入る。
    予備校や塾が、難関校合格の実績を大きく掲げて宣伝している風景だ。

    もちろん、そこに優れた教育が存在した可能性は否定できない。
    ただ、少し冷めた見方をするなら、こうも言える。

    いちばん手っ取り早いのは、「できる学生を集めること」だ。
    一定のポテンシャルを持った子を集めれば、一定の結果は出る。
    その成果が「教育の力」だけで生まれたのか、それとも「もともとの力」も大きかったのか――白黒はつけられない。けれど、少なくとも100%を現場の功績として語るのも、また違う気がする。

    そしてここに、教育という営みのもう一つの側面が見えてくる。

    教育はいつの間にか、組織の発展のための“実績”として利用される。
    難関校合格、就職実績、合格者数。
    それは市場に向けた看板になり、売上や評価につながっていく。
    結果として、子どもたちの努力が「宣伝の素材」になる。これは経営としては自然な論理だろう。

    ただ、現場に立つ者としては、そこで別の違和感が生まれる。


    問題が起きたら「現場の責任」、実績が出ても「現場の評価」にはならない

    教育の現場には、もう一つの現実がある。
    問題を抱える学生、生徒がいるということだ。

    実際、大学でも「来なくなる」「履修できない」「学習が継続できない」学生はいる。留学生ならなおさら、日本での学びに適応できず、生活が崩れていくこともある。

    そうしたとき、組織は“面倒を見る”方向へ動く。
    親への連絡、家庭訪問、時にはアルバイト先への訪問、行方が不明なら探し回る――現場には現場で、具体的な負担が発生する。

    そして、この負担はときに「外れくじを引いた」という感覚を生む。
    なぜなら、学生の背景や素養、家庭事情まで含めて、最初から現場の力ではどうにもならない要素があるからだ。

    にもかかわらず、問題が表面化した瞬間、組織の視線はこうなる。

    • 「なぜ解決できなかったのか」

    • 「担当として何をしていたのか」

    • 「理念に賛同しているなら当然やるべきだろう」

    もちろん、現場に改善の余地がゼロだとは言わない。
    理念を掲げるなら一定の対応は必要だ。
    ただし、それ以上――“解決できないのはお前の責任だ”という追及が始まると、話は変わる。

    ここで不思議な非対称が起きる。

    • 問題が起きたときは、現場が責められる。

    • 実績が出たときは、現場はあまり称賛されない。

    私の職場でも、問題への追及は強い。
    しかし、学生が努力して実績を出しても、ねぎらいが返ってくるとは限らない。
    この「責任だけ重く、評価は軽い」構造は、現場の心を静かに削る。


    現場のモットーは「支援」であって、「成果の奪取」ではない

    私個人の立場は、はっきりしている。
    問題を抱える学生に対しても、すべてを背負うつもりはない。
    一方で、実績を出す学生に対しても、「私のおかげ」とは思わない。

    どちらも、最終的にやるのは本人だからだ。

    教員としてできるのは、支援することだ。
    道筋を示すこと。選択肢を整理すること。背中を押すこと。
    しかし、歩くのは学生自身であり、決めるのも本人だ。

    だからこそ、私は「自律を促す支援」をモットーにしている。
    自律とは、外から管理されて動くのではなく、自分で判断し、自分で立て直し、自分で進む力だ。
    できる学生は伸びる。
    つまずいた学生は、つまずきから“普通に戻る”ための支援をする。

    ここに、組織の論理とのズレが生まれる。

    • 組織は結果で見る(問題がない/実績がある)

    • 現場はプロセスで見る(支援/自律/回復)


    子どもも、現場も、「組織の都合」に回収されていく

    きつい言葉で言えば、学生は利用される。
    実績の材料として、あるいは問題を起こさないための管理対象として。
    そして同時に、現場の教員も利用される。
    問題が起きないように最大限努力せよ、と圧がかかり、実績を出せ、とも求められる。

    否定的に捉えれば、やってられない。
    しかし、これが「社会の構造」として起きているのも事実だ。

    だから私は、こう考えるようにしている。

    組織の論理は変えられない部分がある。
    けれど、現場が守るべき芯は守れる。
    それは、「結果を奪う」ことではなく、「自律へ向かう支援」を続けることだ。

    教育が市場化し、実績が数字になり、問題がリスクとして扱われる時代。
    それでも、教えるという営みは本来、もっと人間的で、もっと地味で、もっと尊い。

    だからこそ私は、実績を掲げる看板を見上げながらも思う。
    本当に評価されるべきなのは、「最初からできる子がさらにできた」ことだけではない。
    平凡な地点から積み上げたこと。
    崩れかけたところから戻ってきたこと。
    問題の中にいた学生が、もう一度学びに向かえたこと。

    そういう変化が、実は教育の核心にある。

    そして、その核心が組織の論理に回収されそうになるたびに、
    私は小さく違和感を覚える。

    教育は、結果のためにだけあるのではない。
    現場は、責任を引き受けるためだけにあるのでもない。

    このズレを抱えながら、それでも支援の位置に立ち続ける。
    それが、教育現場で働く者のリアルなのだと思う。


     
     
    情緒の翻訳者。組織や教育の現場で起きる「言葉にならない違和感」を、感情ではなく構造として整理しています。現役大学教員。 ▶ 固定記事:なぜ私は「組織の違和感」を書き続けるのか。https://note.com/notes_by_yutaka/n/n2daf06743897

    あなたへのおすすめ