
トマス・カスリス『禅の行為/禅の人』⑦第2部 禅の実践における個人的意味〔第7章 道元――現前としての人〕
☆mediopos4650(2026.10.28)
■トマス・カスリス
Thomas P.Kasulis
『禅の行為/禅の人』⑦
Zen Action Zen Person
第2部 禅の実践における個人的意味
Personal Meaning in Zen Practice
〔第7章 道元――現前としての人〕
〔道元における自己〕
〔道元における善と悪〕
〔道元の倫理の哲学的意義〕
〔現前としての人〕
〔自己統制としての自己構成〕
〔世界観としての自己構成〕
〔道元の立場(総括)〕
●基本的な視点
道元の人間観を「現前(現成)としての人」として捉える。
道元は実体的な自我や独立した主体を否定しつつ、
それを単なる否定や虚無に終わらせない。
坐禅の現象学(非思量・現成公案)を通じて、
自己とは反省以前の経験のプロセスそのものであり、
修(修行)と証(悟り)は本来一等(修証一等)であるとする。
自己を学ぶことは自己を忘れることであり、
万法に証せられること、身心脱落へと至る。
この動的な自己構成が、倫理的な即応(慈悲=智慧)の基盤となる。
西洋的な実体的自我や概念的道徳とは対照的に、
道元の立場は「現成するがままの事物の現前」そのものを公案とし、
あらゆる時節における直接的な遭遇と自発的な応答を重視する。
●要点
・道元における自己
『正法眼蔵』「現成公案」の著名な一節が中心。
「仏道をならふといふは、自己をならふなり。
自己をならふといふは、自己をわするるなり……」
「仏道をならふ」は修と証の双方を含む。
無我を目指す際の自己拒絶(不思量・虚無)ではなく、
反省以前の経験の内部へ参徹する。
「自己をわするる」とは、
非思量において自己が形のない虚無に解消されるのではなく、
現前する諸法(経験の現象)と冥合すること。
雑念の裁定をせず、腹の鳴る音さえ現成の一部として受け入れる。
「万法に証せらるる」とは、
自己と対象の二分法を超えた直接経験そのものが自己であること。
「自己をはこびて万法を修証するは迷なり、
万法すすみて自己を修証するは悟なり」。
身心脱落」は単発の出来事ではなく、
各瞬間の更新(現成)としての反復的プロセス。
身体と精神、自己と他者の区別は反省以前には生じない。
区別の妥当性は特定の言説領域に限定される。
「悟の跡を休息せしめて……」は、
悟りが連綿と続く証のプロセスであり、
直前の痕跡が次の現前に脱落すること。
初心者が外部に法を求める姿勢から、
本分人(本来の面目)としての自己認識へ。
・道元における善と悪
「諸悪莫作・衆善奉行・自浄其意・是諸仏教」を、
義務・命令としてではなく、
理想的な精神状態の記述として再解釈する。
「諸悪莫作」は「悪を作るな」ではなく
「諸悪は莫作(生じない/非生産)なり」。
非思量では善悪の範疇を作り出さないため、
悪は相対的であり、莫作自体が悪の莫作を伴う。
「衆善奉行」も同様に、
単なる「奉行(行為の現成)」として語り得る。
善悪の区別を超えた現成公案。
「自浄其意」で莫作と奉行を一体化。
初心者は命令として受け取り修行を始めるが、
変容とともに記述的意味へと深化する。
鳥窠道林と白居易の逸話で例証:
三歳の子供でも知っているが、八十の老翁も行い難い。
現成そのものを証められないことが問題。
・道元の倫理の哲学的意義
大乗仏教において慈悲(カルナー)と般若(直観的知恵)は等価で、
ともに非思量(自我以前)から放射される。
反省以前の慈悲の衝動(孟子の井戸の幼児の例)を、
思考が阻害し得る。禅は自己を規範として自己を忘れ、
利己主義の根を絶つ。
西洋倫理は思量・不思量でエゴを中和・超越しようとする
(黄金律、カントの定言命法、ブーバーの我と汝)。
禅はより根源的に反省以前の即応性を重視。
相対主義に見えるが、拠り所がないこと
が即応(responsive)としての責任を意味する。
西洋哲学も反省以前の側面を
より真剣に考慮すべきとの比較文化的指摘。
・現前としての人
実体的自我(「機械の中の幽霊」)も経験的自己も存在しないが、
経験のプロセス自体が自己反省的・自己構成的である。
外部の主体を必要とせず、経験が自らを方向づけ・現成させる。
動的で肯定的な人間像。
・自己統制としての自己構成
我々が自らの行動・態度・感情を統制できるという信念は、
経験の自己反省性による。
過去のパターンから自らを切り離し、
現成公案(直接的な状況)へ回帰する。
非思量が思量・不思量の基盤(底伏)となり、
坐禅がその規範を確立する。
有機的システムとして単純性・エネルギー保存へと向かう
自然なプロセス。
・世界観としての自己構成
態度と対象の相依性により世界観が形成され、
それがさらなる知覚を偏向させる。
反省以前の経験が先習的思い込みで遮断され、
内部で葛藤が生じる。
坐禅(または禅師の破格の技法)により、
非本来的な世界観を打ち砕き、本有の現成に再び根ざさせる。
・道元の立場(総括)
1)自己を見出される通りに受け入れ、
経験の内部で参究・証明せよ
(実体的自己を想定するならその現前を、怒りを感じるならその源を)。
2)自己欺瞞による世界観に自覚的で、反省以前の事象と照合せよ。
只管打坐が根本経験(修証一等)。
3)行為せよ。
非思量を底伏として、あらゆる状況を公案として直接対峙。
反省以前の即応が真の倫理的自己を成す。
憤怒の場合もその現成を参究(利己的か義憤か)。
辞世の歌:
「世の中を何にたとえん水鳥の嘴ふる露に宿る月影」
——一瞬の現前に宿る生命力と円満を示す。
●本文
〔道元における自己〕
前章において、我々は道元の「現成公案」の概念が、彼の坐禅の現象学の真の核心にあることを見てきた。したがって、自己に関する道元の最も高名な言明が、まさにその名をもつ『正法眼蔵』「現成公案」の巻に由来しているということは極めて重要な意味をもっている。
「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。悟の跡を休息せしめて、休息せしめる悟りの跡を長々と出させるなり。
人、はじめて法を求むるとき、はるかに法の辺を離去せり。法すでに正伝するとき、たちまちに本分人なり。」
この短い一節において、道元は人が禅において一人の人間として自己を現成するとはいか なる意味であるのかを明らかにしている。したがって、この一節を一句ずつ分析していくことにしよう。
仏道をならふといふは、自己をならふなり。
「仏道」という表現は、仏教の聖者たちが歩んだ修行の経路であると同時に、仏の悟れる心そのものを意味している。それゆえ、この用語は本質的に修行(修)と現成(証)、すなわち規律ある実践と悟りの双方を包括している。「ならふ」という表現は、ある事柄を研究する、あるいは学習することを意味する動詞であり、特にモデルや規範を繰り返し模倣することによって修得することを指す。したがって、「仏道を習う」とは、初心者が禅仏教徒としての生き方に着手する(弁道する)際の努力であると同時に、その努力の目標をも同時に指し示しているのである。それゆえ、道元の言明の十全な意味を理解するためには、我々は修行と悟りという二つの次元をともに扱わねばならない。
実践的な側面において、修行者は仏たちの偉大なる宗教的探求に見習う(倣う)ことを願い、「無我」あるいは「自我の不在」を目指して奮闘するが、その過程において、自己のあらゆる側面を拒絶してしまう危険がある。これは事実上、自らの経験の拒絶であり、不思量という虚無主義への転落にほかならない。しかしながら、道元にとって、悟りとは我々自身の経験を証(あから)めることにこそある。したがって、無我の教理を理解するためには、自己を拒絶する(自己について不思量となる)のではなく、むしろその意味の内部へと参徹しなければならない。それゆえ道元は、弟子たちに対して、仏教の教理の中にも、禅師の心の中にもではなく、「彼ら自身の内部」に悟りを見出すよう勧めているのである。もちろん、逆説的なことに、自らの経験を深く参究することによって、弟子たちは最終的に、教えの真理と仏心とを発見することになるのである。
悟り(現成)の立場から見れば、この言明は「本覚(ほんがく/本来の悟り)」の思想を反復している。悟りとは、根源的に与えられているもの(本有)の内にこそあるのだ。我々が自らの悟りに気づかないのは、反省以前(前反省的)の自覚を反省的(省察的)な範疇によって覆い隠してしまっているからにほかならない。したがって、仏道と調和するためには、我々は自分自身の反省以前の経験を規範としなければならないのである。この分析は、道元が自己への自覚を瞑想の適切な対象と明確に見なしているという点において、我々の現成公案に対する解釈を補強するものである。禅の実践における「現成するがままの事物の現前」それ自体がひとつの公案なのであり、趙州の「無!」のような伝統的な公案に頼る必要はないのである。
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
非思量の坐禅の状態において、自己はどこにあるのだろうか。足の指をぶつけて「痛い!」と叫ぶ状況を考えてみてほしい。誰が叫んだのだろうか。男だろうか、女だろうか。保守主義者だろうか、自由主義者だろうか。老人だろうか、若者だろうか。学ぶべき規範として自己を探し求めるとき、人は自己が「消え去っている」ことに気づくのである。しかし、自己は形のない虚無へと解消されるのではない。それは反省以前の経験の現象(諸法)の中へと融合(冥合)するのだ。人は、雑念を避け、純粋な自己に集中するために静かな場所で瞑想するのだと考えるかもしれない。しかし、坐禅には雑念など存在しない。雑念とは、意識に現前していながらも、みずからが望む焦点の「外部」にあるもののことだ。しかし坐禅においては、現前(現成)そのものが唯一の内容なのである。すなわち、非思量には望まれるべき焦点など存在しない。次の逸話がこの点を例証している。
京都にいる一群の西洋人たちが、人里離れた小さな禅寺に毎夜集まって瞑想をしていた。ある晩、参加者の一人が遅刻し、坐禅の前に食事を摂る時間がなかった。坐禅が始まって中頃を過ぎた頃、彼の腹が激しく鳴り響き、その音が禅堂全体に反響した。翌晩、別の参加者がその腹を鳴らした男に向かって言った。「今日は食事を摂ってきたことを願うよ。昨日は君の腹があまりにうるさくて、私は集中(三昧)できなかったのだから」。腹を鳴らした男はこう応じた。「ああ、今日は食べてきたよ。それから、秋虫たちが静まり返り、月が暗くなるようにも手配しておいた。だから、今や君を邪魔する雑念は何もないはずだ」。
腹を鳴らした男の言うことは全く正しかった。坐禅は、音や光景を望ましいもの、あるいは望ましくないものとして裁定しない。腹の鳴る音もまた、「現成するがままの事物の現前」の一部であったのだ。瞑想とは空虚な静寂であるという自らの予断に囚われていたために、気を取られたあの瞑想者は、自己を忘れることができなかったのである。すなわち、彼は自らの反省以前の経験を、あるがままの姿――すなわち悟り(現成)――として受け入れることができなかったのだ。
自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
道元はここでも、坐禅が内容を欠いたものではないということを我々に想起させる。私が机に向かい、これらの行を書き記しているとき、そこには白い紙があり、右手の黄色い鉛筆があり、紙の上の黒鉛の跡と連動する手の往復運動があり、茶色い机の天板があり、ノートを押さえる左手があり、頭上の蛍光灯のうなりがあり、そして言葉の連鎖――それらを思考し、書き、読むという単一の、分割されることのない行為――がある。これらは単に私の経験の内部にある「事物」なのではない。それらこそが「私の経験」なのだ。私の自己がこれらの事物に関係しているのではない。私の自己が「これらの事物そのもの」なのである。この事実に対する自覚は、坐禅において最も明晰となる。同じ「現成公案」の巻の少し前の部分で、道元は次のように述べている。「自己をはこびて万法を修証するは迷なり、万法すすみて自己を修証するは悟なり」。
根源的には、ただ経験のプロセスそのものがあるだけなのである。「自己」や「対象」とは、その元来統一されていた経験から後になって生じる抽象物にすぎない。したがって、道元が万法について語るとき、彼はその対象を経験から切り離してはいない。「事物(法、ダルマ)」とは、直接経験される事物のことであり、自己と対象の二分法を伴わずに反省以前の経験において与えられるものなのである。
比喩として、「自然は、相反するもの(蒸発と降雨、捕食者と被食者、死と生、腐敗と受肥など)の均衡を注意深く維持している」という文における「自然」という用語を考えてみよう。この言明は自然に意志や意図を帰属させる(「注意深く維持している」)擬人化であるが、これは単なる比喩にすぎない。自然とは、多くの現象的パターンの観察から導き出された抽象概念である。事実、それは括弧内に列挙された相反するものの総体を指している。自然に意志や意図があると考えることは、「自然は悪である、あるいは善である」「怒っている、あるいは親切である」といった誤解の根源となる。道元の「自己」という用語に対する視座もこれと同様である。この言葉は無意味ではない。それは一般に、一連のプロセスの総称(名辞)なのである。しかし、この用語がプロセスの「背後」にある何か、すなわち、それらの活動「そのもの」であるというよりは、むしろそれらの活動を「開始する何か」を含意するとき、その言葉は誤用されているのである。
万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。
前章で述べたように、「身心脱落」という表現は、道元の悟りを触発した如浄の叱咤の言葉(「参禅は身心脱落なり」)の一部であった。道元はこの「身心脱落」という表現を自らの術語とするにあたり、独自のニュアンスを付与している。第一に、ハイフンで結ばれた「身体―精神(身心)」という用語についてである。この「身心」という表現は「身体と精神」とも翻訳され得るが、道元はしばしば「身心一如」、すなわち「身体と精神の一体性」を明示的に言及している。精神と身体の区別は、往々にして主観と客観、あるいは心と物質の区別と相関している。もちろん、これらの範疇はいずれも反省以前には生じない。例えば、ただ「ツクツクボウシ」を経験しているだけの瞬間には、物理的な音波と私の聴取との間、感覚と知覚との間、あるいは身体的なものと精神的なものとの間に、いかなる差異化も存在しない。また、道元のこの表現の後半部分である「脱落」は、時に「削ぎ落とされること(dropping off)」と翻訳されることもあるが、ここでは「脱皮(モルティング)」という訳語が好まれる。なぜなら、それが「反復して生じる出来事」を含意するからである。脱落は、毎回の坐禅において、座っている「あらゆる瞬間」において生じる。したがって、坐禅の状態は各瞬間に更新され、活性化(現成)されるのである。悟りとは、単一の出来事ではなく、連綿と続くプロセスにほかならない。
非思量の状態においては、身体と精神の間の分離は存在しない。また、自己と他者の二分法も直接経験されないため、道元は「他己の身心の脱落」についても語るのである。言い換えれば、我々の相互の孤立(分断)とは、反省の上において初めて生じるものなのだ。例えば、他者の感じる「痛み」に対する我々の気づきについて考えてみよう。戦闘の渦中にいる衛生兵は、隣の掩体壕(えんたいごう・防空シェルター)にいる歩兵の悲鳴に対して、自発的(自然)に即応するかもしれない。その反省以前の即応性において、衛生兵は「自己が他者に対して変化をもたらしている」ということを自覚(意識)してはいないのである。
同様に、通りを歩いているとき、私は氷の上で滑りそうになっている見知らぬ人に突然反応し、その人の腕を掴み、相手のバランスを安定させるためにかなり複雑な機動(動作)を行うことがある。その行為の瞬間には、自己と他者、あるいは精神的な意図と身体的な活動との区別は存在しない。私の身心と相手の身心とは、独自の均衡を維持する「一つの複雑な実体」と化しているのである。換言すれば、その行為の瞬間において、我々は我々の均衡点を達成しているのだ。ダンスのペアのように、私と滑りかけた歩行者は、完全に自発的であり前反省的な様態において、互いの動きを補い合い、即応し合っている。これとは対照的に、脇腹の痛みを訴える患者を診察する医師の状況を考えてみよう。医師は患者の脇腹に手を置く際、患者のあげる苦痛の叫びを「分析」しなければならないかもしれない。これは虫垂炎だろうか。直ちに手術すべきだろうか。この状況は、患者の痛みの性質と強度に関する反省的分析を要求するため、医師は様々な概念的範疇を利用することになる。病因論的、診断的、予後的な範疇だけでなく、「なすべきことを決定し、自らの行為に責任を負う自己」と、「その影響を受ける他者」との区別をも利用するのである。
ここには重要な哲学的問題が存在する。時節(状況)が変化するにつれて、関連する範疇の領域もまた移行する、という点だ。医師の状況にとって極めて重要であった自己と他者の分離は、衛生兵の反省以前の即応や、私が歩行者を助けた瞬間には見えていなかった。言い換えれば、自己と他者の区別は、非思量の状態においては直接経験されないのである。このことは、その区別が虚偽であるということを意味しないが、その妥当性は特定の状況や言説の領域に限定される。例えば、その区別は専門職の倫理、法的責任、あるいは生理学的診断に関する議論には密接に関連しているが、自発的な行為や反省以前の即応を記述する際にそのような範疇を用いることは誤りなのである。歩行者を助ける際に「私は自己と他者の分離を超越していた」と言うことでさえ、誤解を招きかねない。そのような特徴づけは、それらの範疇が根源的なものであり、私が一時的にそれを超越したのだということを暗黙のうちに措定してしまっているからである。これは「非思量」と「不思量」を混同することにほかならない。私が自己と他者について「考えなかった(不思量だった)」のではない。そうではなく、思考を交えない(非思量の)地平においては、そもそも自己も他者も「存在しない(無我である)」のである。
悟の跡(あんない)を休息せしめて、休息せしめる悟りの跡を長々と出させるなり。
この驚くべき言明(「悟のあんないを休息せしめて……」)は、一見すると逆説的に思われるかもしれないが、決してそうではない。連綿と続く証(あきらめ)のあり様として、悟りとは「今まさに直接経験されつつある事態」への絶えざる回帰を内包している。現成するがままの事物の現前に遭遇したばかりのその身心は、次なる瞬間の現前にいかなる予断もなく新たに遭遇できるよう、その都度「脱落」していくのである。悟りのあらゆる瞬間は一つの更新なのだ。すなわち、悟りとは現在進行形のプロセスであり、一瞬前の悟りは、まさに而今(にこん)の悟りの中へと脱落していくのである。したがって、悟りという証の瞬間が生じるやいなや、その区別的な痕跡が目に見えるようになるやいなや、それは次の証の瞬間に場所を譲るために、速やかに消え去っていくのである。
人、はじめて法を求むるとき、はるかに法の辺(ほとり)を離去せり。法すでに正伝するとき、たちまちに本分人なり。
ここで「法」と訳されている言葉は、「真理」あるいは「ダルマ」にほかならない。その意味の範囲は、直接経験される万法(諸現象)を包括すると同時に、仏教の教えをも含んでいる。すなわち、事物の真理であると同時に、観念の真理でもあるのだ。ここでの対比は、初心者が外部の真理を追い求める姿勢と、自らの反省以前の経験の内部において真理を発見することとの対比にほかならない。道元の言う「本分人(ほんぶんにん)」という表現は、極めて示唆に富んでいる。悟りとは、自らが最も根本的に何であるのかを直接的に認識すること――すなわち、反省以前の経験がもつ純粋性、統一性、そして即応性を認識すること――なのだ。実質的に、これこそが「仏道をならふといふは、自己をならふなり」という言明に対する、道元の最終的な開顕にほかならない。それは、臨済の言う「無位の真人」や、慧能の言う「父母未生以前の本来の面目」に相当する道元の概念であり、さらには「序文」で示唆したソクラテスの「汝自身を知れ」にすら匹敵するものである。道元の人間観がもつ実践的な意義を正しく評価するために、我々はここから、その倫理的な含意へと目を向けることにしよう。
〔道元における善と悪〕
日本の禅仏教に関する我々の議論は、その教えがもつ倫理的な次元に言及しなければ、不完全なものとなるであろう。善悪に関する道元の見解は、やはり『正法眼蔵』の一巻であり、大乗仏教における道徳性の最も深遠な議論の一つである「諸悪莫作(しょあくまくさ)」の巻において最も見事に表現されている。この著作において、道元は禅の伝統の内部に存在するある葛藤を解決しようと試みている。一方で、禅は伝統的に仏教徒でありたいと願っており、これは何世紀にもわたって受け継がれてきた様々な道徳的戒律を認識することを伴う。しかし他方で、大乗仏教の一翼、とりわけ龍樹(ナーガールジュナ)の視座から派生した一派として、禅は善と悪との間にあるような区別を、絶対的なものではなく相対的なものであるとみなしている。したがって道元は、善悪の区別の絶対性を否定すると同時に、伝統的な道徳的勧告を肯定することがいかにして可能であるかを示そうとしているのである。彼の分析は、その坐禅の現象学と、その人間観の上に築かれている。
自らの立場を構築していく上での焦点として、道元は再び、古典的な中国仏教の経文の章句に対して、極めて変則的な再解釈を施している。
〔漢文表現〕
伝統的な解釈
道元の解釈
〔諸悪莫作〕
諸々の悪をなすことなかれ
諸悪は莫作(生じないこと)なり
〔衆善奉行〕
諸々の善を奉行せよ
衆善は奉行(現成)なり
〔自浄其意〕
自らその意を浄くせよ
自らその意を浄くするなり
〔是諸仏教〕
これが諸々の仏の教えなり
これ諸仏の教えなり
この図式が示しているように、道元の基本的な戦略は、この章句を倫理的な義務としてではなく、「理想的な精神状態の記述」として捉えることにある。そうすることによって、議論は道徳的な正しさ(矩)から、証(あきらめ/現成)の問題へと移行するのである。
道元はその註釈の冒頭において、「諸悪莫作・衆善奉行・自浄其意」は諸仏の教えであり、これに異を唱える者は魔羅(悪魔)にすぎないと我々に保証している。それにもかかわらず、悪とは相対的なものである。ある時代、ある場所において悪とされるものが、異なる時代、異なる場所においては悪とはならないかもしれない。この一見矛盾する事態を克服するための鍵は、この表現の十全な意味を理解することにある。
「諸悪莫作と聞き来たる時、これ仏の正法なり。……しかあれども、凡夫のさしあたりて計会(けげい)するは、諸悪つくることなかれと言ふに似たり、凡夫の計会するがごとくにはあらず。……これ乃(すなわ)ち、向上の道得の、この時に聞き来たるなり。すでにこれ向上の道得なり、すなわちさとりを語るなり、さとりを言ふなり。……無上菩提を道得しきたりぬるを聞くに、事はしたがい転じて、悪を作らざらんとする志、ついに莫作(まくさ)となる。……諸悪ついに作らざる時、修の工夫の効(いさお)たちまちに現成するなり。この現成する時、尽大地・尽世界・尽時・尽法、この莫作の界量(領域)なり。」
ここで「生じないこと」あるいは「非生産」と訳されているのは、道元による「莫作(まくさ)」という語の特別な用法にほかならない。「作」という文字は「行動する」という意味をもち得るが、同時に「作る、創造する、生産する」という含意をもっている。したがって、道元の要点は、「諸悪莫作」と述べることの含意とは、人がいかなる悪も「作り出さない」ということにある。しかし、道元による意識の全体的な特徴づけを踏まえるならば、もし人が反省以前の経験の上に重ね合わせるべきいかなる範疇をも作り出さないのであれば、そこには悪などそもそも存在し得ないのである。それゆえ、莫作(非生産)それ自体が、悪の莫作(非生産)を必然的に伴うのだ。「悪がまったくないというわけではない。ただそれらは莫作(作られないこと)なのである」。事実、道元はさらに論を進めて、すべての事物――松の木、菊の花、僧院の執器、さらには自己に至るまで――は「有でも無でもなく、これらはすべて莫作(非生産)なのである」と述べている。
肯定でも否定でもないものとしての「莫作(非生産)」のこのような特徴づけは、明らかに我々の「非思量」に関する議論を思い起こさせる。龍樹の論理に従うならば、善と悪という言葉は相互に依存し合う概念(相依性をもつ概念)であるため、それらは思量の地平において機能する。しかし、莫作はそうした範疇化りも根源的なものである。この点において、「諸悪の莫作」と述べることは贅言(重複)にすぎず、単に「莫作」と言えば十分なのである。初心者が「諸悪莫作」という表現を最初に耳にするとき、それを「悪をなすなかれ」という勧告(命令)として受け取る。そうすることによって、修行者は仏教の規律(修行)に着手するが、やがてその人物が霊的(精神的)に変容を遂げるにつれて、その言葉は修行者の現成(悟り)のあり様を記述(表現)するものとなる。すなわち、それはもはや命令法ではなく、今や非思量の状態の記述なのである。道元が述べているように、「修の工夫の効(いさお)たちまちに現成する」のだ。
「莫作(非生産)」という用語は、否定的で受動的なものに思えるかもしれない。しかしながら、道教の「無為」と同様に、非思量とは世界からの退却では決してない。それは「現成するがままの事物の現前」への参与にほかならず、この思想は、道元による第二句「衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)」の議論によって強調されている。道元は三つの点を挙げている。
(1)善は、悪と同様に、相対的であり時節(状況)に依存する。
(2)人は、「諸々の善を奉行すること(衆善奉行)」の代わりに、単に「奉行(ぶぎょう/行為の現成そのもの)」について語ることができる。
(3)奉行が善と悪との間にいかなる区別もなさず、そうした範疇を肯定も否定もしない限りにおいて、それもまた現成公案なのである。すなわち、「この『善』の因果も、これまた現成公案の奉行(ぶぎょう)なり」。
莫作(非生産)と奉行(行為の現成)は、ともに現成公案であるため、それらは一等(等価)でなければならない。道元は、この章句の第三句である「自浄其意(じじょうごい)」において、これらを一体化させている。ちなみに道元は、我々に対して「意(意図)」や「自ら(自己)」という言葉を対象化してはならないと戒めている。坐禅に根ざした非思量の経験を通じて自らの意(心)を浄く保つこと(自浄其意)によって、そこには莫作があり(すなわち、思考対象の創造を行わない)、しかもそこには十全な奉行がある(すなわち、現実は常に更新され続ける現成公案のプロセスそのものである)のである。
道元によるこのような言葉の妙(読み替え)がいかに深遠な点を表現しているか、我々は彼が聖書の「汝、殺すなかれ」をどのように扱うかを想像することによって理解できる。道元ならば、人は最初、これを神聖な命令である「殺してはならない」として受け取り、それによって宗教的・道徳的な生活に着手するのだと論じるかもしれない。しかし、ある程度の時間が経過すると、その人物の霊的(精神的)な修行の効(成果)により、もはや殺人を犯すこと自体が不可能な存在となる。その時点で、人は突如としてその表現を「記述(描写)」として見出すことになる。すなわち、「[あなたは]殺すことのない[人間である]」という記述だ。言い換えれば、「汝、殺すなかれ」という表現は常に霊的な力を帯びているが、その意味は、その人自身の霊的な状況(地平)から絶えず証(あきら)められ続けなければならないのである。道元風に言えば、そのような表現を卒業した(超越した)などと述べることは、「魔羅(悪魔)の教え」にほかならない。この点は、「諸悪莫作」の巻を締めくくる逸話(故事)によって例証されている。
まだ初心者であった高名な中国の詩人・白居易(白楽天)は、鳥窠道林(ちょうかどうりん)禅師に対して、仏教の真の意義を尋ねた。鳥窠は「諸悪莫作、衆善奉行」と答えた。詩人が、そのようなことは三歳の子供でも知っていると反論したとき、禅師は次のように説明した。「三歳の幼児もこれに道得し去るべけれど、八十の老翁も行じ難し」。当然のことながら、白居易はこの表現を単純な命令(義務)として受け取っていた。それにもかかわらず、彼は自分自身にとっての真理をその内に見出すべきであった。なぜなら、「たとえ鳥窠が計会をもって(作為的に)悪を戒め、善を勧めたとしても、その現成はなお必ず莫作(まくさ)だからである」。
言い換えれば、もしこの詩人が鳥窠の言葉を単に受け入れることができたなら、たとえそれを単純な命令として受け取ったとしても、彼は真摯にその修行を開始し、自らの霊的状況が進化するにつれて、ますます深い解釈へと達したはずなのである。白居易が対峙できなかったのは、当時の彼がそれをどのように理解していたにせよ、「莫作の現前(現成)」そのものであった。彼は、現成するがままの事物の現前を――この場合には、命令としての莫作を――証(あきら)めることができなかった(あるいは、証めようとしなかった)のである。これこそが、自らの経験に真摯に向き合う真面目な初心者の心であっても、それ自体が仏教的な現成(悟り)の現前である、と道元が強く主張する理由にほかならない。人が坐禅の理由や意義(因果)をいまだ理解していなかったとしても、禅師の立場から見れば、まさにその最初の修行の姿そのものが、すでに「証(悟り)」なのである。
禅仏教の倫理的な次元に関するこのような探求は、西洋の道徳哲学者(モラリスト)を依然として不安な気持ちにさせるかもしれない。禅は我々を「相対主義」のただ中へと突き落としてしまったからである。しかし、ジョセフ・フレッチャーの状況倫理とは異なり、道徳的ジレンマに直面した個人を導くための「アガペー(無条件の愛)」のような、最優先される規範は一見すると存在しないように思われる。禅の視点においては、文字通り「拠り所となるものは何もない」のであり、責任を負う(responsible)ということは、単に「即応する(responsive)」ということにほかならない。固定された基準のこの欠如が、西洋の読者にとって深刻な躓きの石とならないよう、ここでいくつかの文化を超えた比較(比較文化論的考察)を行うことは、さらなる価値をもたらすことが証明されるはずである。
〔道元の倫理の哲学的意義〕
大乗仏教の伝統の一翼として、禅は「慈悲(カルナー)」が根本において「般若(プラジュニャー/直観的知恵)」と等価であると考える。前章で論じたように、人は反省以前の経験を分析によって解消することはできない。非思量のノエシス的(意向作用的)あるいは「作用」の側面が、思量や不思量のノエシス的側面とは根本的に異なっている限りにおいて、反省以前の経験を反省的・概念的に還元してしまうことは、その経験がもつ強度、自発性、そして平穏さ(不動心)を奪い去ることになるからである。儒教の孟子は、我々の根底にある「仁」について感動的に書き残している。今にも井戸に落ちそうな幼児を見かけたとき、誰が自発的に助けたいという衝動を覚えないだろうか、と孟子は論じた。もちろん、このことは「誰もが実際に助けようとする」ということを意味しない。例えば、もしその幼児が皇太子であり、目撃者が王位継承順位の次の位置にある人物であったなら、その人は慈悲の衝動を抑圧し、幼児を死なせてしまうかもしれない。要点は、諸区別(二分法)が導入されて「初めて」、その衝動が阻まれるということである。思考は、反省以前の慈悲の真の本質を捉え損ねるだけでなく、往々にして慈悲の表現そのものを「阻害」するのである。
しかし、思考とは常にこのように機能しなければならないのだろうか。例えば聖書の「黄金律」は、自己と他者の間の違いを打ち砕くために、あえて自己と他者の間に区別を設けている。西洋の倫理体系は一般に、道徳、正義、公正、アガペーといった対抗概念を展開することによって、利己主義を中和しようと試みる。これに対して禅は、より根源的に、自分自身を規範とすることによって自己を忘れ、それによって利己主義そのものを根絶するのである。禅において慈悲と直観的知恵が同一であるのは、その双方が、自我以前の様態である「非思量」から放射されるからにほかならない。自我が完全に抜き去られて(脱落して)初めて、区別のない慈悲と、先習的な思い込みのない知恵が可能となるのである。これとは対照的に、西洋倫理は一般に、道徳に対して思量あるいは不思量のアプローチを展開してきた。エゴイズムに対する概念的な抑制と均衡を発達させることにより、利己的な自我は、カントの定言命法(思量の様態)におけるように自我をより高次の原理に従属させるか、あるいはブーバーの「私と汝」の関係におけるように自我を新たな次元へと開放することによって克服されるのである。(この「私と汝」の関係は、意識的に自我を肯定も否定もせず、意図的に自我を超越するものである限りにおいて、不思量の様態と一定の関係をもっている。)
禅の道徳観が西洋の道徳観よりも優れているか劣っているかをここで判定することは、我々の任務ではない。我々の唯一の要点は、禅の視座が原始的なものでも、神秘的に難解なものでもないということを示す点にある。さらにそれは、東洋であれ西洋であれ、人類の道徳的次元に関するさらなる考察への大いなる貢献を提示している。もし、慈悲、平穏(不動心)、そして真の無我が「反省以前にのみ」我々に開かれているという道元の確信が正しいとするならば、西洋の道徳的記述は、経験における反省以前の側面の重要性をより真剣に考慮せねばならない。仮に西洋の哲学者たちが、意識は常に何よりもまず理性的であり、概念志向的であるべきだと主張し続けるとしても、反省以前に即応する即応性は依然として育まれるべきである。さもなければ、我々はその能力とともに、真に慈悲深く、無私であり、そして自発的に道徳的であるという可能性そのものを失ってしまうであろう。自己と道徳性の意味に関する道元の解説に照らすことで、我々は今や、禅において自己であるとはいかなる意味であるのかに、直接焦点を合わせることができるのである。
〔現前としての人〕
修行(修)と直接的な現成(証)との間の二分法を退けることによって、道元は動的かつ肯定的な人間像を描き出した。すべての伝統的な仏教徒と同様に、彼は経験のプロセスの底に横たわる「実体的な自我」という観念を拒絶している。ギルバート・ライルが表現したような、霊魂も、独立して存在する精神も、あるいは「機械の中の幽霊」も存在しないのである。また、知覚的経験の対象となり得るような、経験的な自己というものも存在しない。しかしながら、道元の立場において極めて興味深いのは、このような自我の拒絶が、自己の吟味(参究)を無意味なもの、あるいは不必要なものにするわけではないという点である。そこには省察すべき「経験する主体」は存在しないものの、経験それ自体が「自己反省的(自覚的)」なプロセスなのである。外部の作用(主体)によって方向づけられることなく、経験はそれ自体を方向づけ、あるいは構成(現成)していくのだ。この観念は逆説的に思われるかもしれないが、それにもかかわらず、道元を理解する上では極めて重要な意味をもっている。ここで、この問題に対して二つの異なる方法からアプローチしてみることにしよう。
〔自己統制としての自己構成〕
第一に、少なくとも時には、そしていくつかの側面において、我々が自らの活動を統制できると確信しているということは、人間の経験における普遍的な一側面である。すなわち、適切な条件下において、我々は自らの行動だけでなく、ストア派の哲学者たちが指摘したように、自らの態度や感情をも変化させることができると信じている。この我々の信念が実際に正当化されるかどうかという問題は、さしあたり脇に置いておこう。我々がここで問題としているのは、独立して存在する自我などおそらく皆無であるにもかかわらず、自己に関する道元の見解が、我々がいかにしてそのような信念を抱くに至るのかを十分に記述できるか、という現象学的な問題「だけ」である。すなわち、人間とは経験的出来事の流れそのものにすぎないのだとすれば、なぜ我々は時に、そのプロセスを統制している「私」が存在するように感じてしまうのだろうか。
何よりもまず、意識とは「自己反省的」なものであるという事実を記憶しておくことが重要である。この自己反省性により、我々は自らの経験が次から次へと続いていくのを自覚できるようになる――単に思考の連鎖においてだけでなく、感情のパターンにおいても同様である。したがって、知的な領域においては、予期せぬ厄介な事態が生じたとき、我々が自然とその状況の原因を究明しようとすることに気づいている。同じように、感情の領域においては、朝の怒りの一幕のせいで、午後には何でもない他愛のない状況に対してもいら立ちやすくなってしまう、というパターンを我々は認識している。日常生活において、このことは、心が別のことに奪われているときには、小切手帳の計算ミスを犯しがちであるということを意味する。このようなありふれた出来事においてさえ、我々は自らの経験の相互に関連し合うパターンを自覚しており、しばしば自らをそれらのパターンへと「適応」させている。例えば、自らの集中力の欠如を認識したときには、小切手帳の引き算を二重、三重にチェックしたりするのである。
ここで問われている問題は、一体誰が、あるいは何がその適応を行っているのか、という点だ。それは「経験のプロセスそのもの」にほかならない。では、いかにしてそれを行うのだろうか。かつて直接経験されはしたものの、もはや直接経験されてはいない「過去の経験の内容」から、自らを「切り離す」ことによってである。このようにして、人は自らの経験の源泉、すなわち、現成するがままの事物の現前の直接的な状況(現成公案)へと立ち返る。今や小切手帳の残高を合わせている最中であるならば、人はその事象に意識を集中(随順)させるのである。言い換えれば、そこには思量(思考)から非思量の状態への「回帰」が存在するのである。
この非思量とは単なる「中心点」にすぎず、それは状況(時節)に対する適切な応答として、思量(思考)の作用を十分に呼び起こし得る。例えば、小切手帳に集中(随順)する際には、計算的な思量が必要とされる。急激な激痛に耐えるときのように、ある状況においては不思量の作用でさえ適切であり得るだろう。いかなる場合であれ、非思量はあらゆる思量や不思量の作用の基盤(底伏)なのである。このような形で機能するとき、経験は、具体的な現実(実在)との最も直接的な接触の中に根ざしている。同様の文脈において、リクールはフッサールの現象学を、我々の事物に対する直接的知覚の至高性を再言明したものとして捉えている。
「世界の第一の真理とは、数理物理学の真理ではなく、知覚の真理である。あるいはむしろ、科学の真理とは、知覚を通じて生きられる世界という、現前と存在の第一の土台(基礎)の上に築かれた「上部構造」なのである。……
そこ[フッサールの『イデーンII』]において明白となるのは、「構成する(現成する)」とは構築することではなく、創造することではいっそうなく、むしろ、事物に対する自然で、反省を経ない、素朴な把握(把持)の中に一体化(冥合)している意識の志向作用(意向)を展開すること(現成させること)にほかならない、という点である。」
有機的で生きているシステムとして、経験のプロセスは、単純性とエネルギーの保存へと向かう自然な傾向をもっている。したがって、非思量は自発性、自然さ、そして寂静の印象を与える。非思量への回帰とは、いかなる外部の作用(主体)をも必要としない自然なプロセスなのだ。坐禅は非思量の縮図(典型)であるため、それはあらゆる反省的な思量や不思量を根ざしめせる直接経験の「規範」を確立するのである。人が坐禅を修行すればするほど、非思量の寂静に対してより自覚的になり、座っていないときであっても、人はより速やかにそこへと立ち返ることができるようになる。
〔世界観としての自己構成〕
経験の自己構成(現成)について語る第二の方法は、態度と対象の間の相互依存性(相依性)という観点から捉えるものである。世界に対する我々の態度は、我々がその世界の何に焦点を当てるかに影響を与え、我々が焦点を当てる事象は、我々の態度に影響を及ぼす。言い換えれば、我々は自らの経験の領域における様々な対象に「意味」を付与(分有)しているのであり、それらの意味の総体が合一(融和)して、一つの世界解釈へと結実するのである。そうして形成された「世界観」が、次度は、我々が何を有意義、あるいは意味のあるものとして知覚するかに影響を与える。端的に言えば、我々は将来の解釈に対して、単なる視座だけでなく、一定の「偏向」をも持ち込むことになるのだ。
この経験のプロセスは、文字通り「自らの一部を拒絶する」ような構造をもっている。すなわち、我々が反省以前に経験している事象は、反省的に構成された我々の先習的な思い込みによって遮断されてしまうのである。したがって、経験は、統一性、単純性、そして直接性へと向かう自らの衝動(能動性)に逆行することになり、その内部において嘘を生きることになる。反省的経験は、自らの反省以前の根源(根柢)から自らを切り離してしまうのだ。人は、反省以前には経験されていない事物の直接経験を主張する一方で、実際には即時的に経験されている事物の経験を否定(不思量)してしまうのである。
しかしながら、人が反省以前の経験の「真の本質」と直面(対峙)するとき、この内部の葛藤は突如として解決され、非本来的な世界観は打ち砕かれ得る。坐禅はこれを行うための根本の方法であるが、その人物の視座があまりに硬直しているために思考(思量)を交えずには座ることさえできない場合には、禅師によって「破格の技術」が用いられることがある。これらの技術については、次の章において検証することにしよう。しかし、坐禅が正しく修行されるとき、それ自体が「ただあるがままのもの」の直接的な証(あきらめ/現成)なのである。この確実(不謬)にして直接的な遭遇が与えられることで、経験は「新たな方法において自らを構成(現成)し」、反省以前の根源的な与えられ方(本有の現成)の中に再び自らを根ざしめせるのである。そうして、時節(状況)は直接的に把握(参究)され、その即応(応答)は、現在経験されつつある内容といっそう緊密に結合するのである。
〔道元の立場(総括)〕
今や我々は、道元の立場を簡潔に特徴づけることができる。第一に、人は自らが見出す通りの自己をそのまま受け入れねばならない。もし、そこに実体的な自己が存在すると考えるならば、その自己を参究せよ。その現前はどこにあるのか。それはどのように機能しているのか。もし「諸悪莫作」を「悪をなすなかれ」と解釈するならば、その解釈を受け入れ、それに従って生きるがよい。もし時間が飛び去っていく(流去する)と考えるならば、自らの経験を吟味し、本当にそうであるかどうかを証(あきら)めるがよい。いかなる見解も、単なる盲信によって受け入れてはならない。自らの経験の内部において、それを証明(現成)せよということだ。もし怒りを感じるならば、それを参究せよ。その現前(現成)とは何なのか。それは今直面している事象への即応なのか、それとも過去の経験の残滓にすぎないのか。第二に、人は自己欺瞞(妄想)から世界観を構築し得るという事実に自覚的であり、反省以前に現れる事象と照らし合わせることによって、そうした妄想を点検しなければならない。坐禅においては反省が存在しないため、妄想の入り込む余地はない。したがって、ただ座ること(只管打坐)こそが、禅仏教徒の生における根本経験なのである。坐禅という純粋な修の工夫そのものが、そのまま証(悟り)にほかならない(修証一等)。第三に、行為せよ。人が坐禅に根ざしているとき、非思量は思量や不思量の直接的な源泉(底伏)として機能する。非思量が活動の背後にある原動力とならない限り、それが思量や不思量へと注入することはない。あらゆる時節(状況)の現前(現成)こそが、公案なのである。人生のいかなる状況も、まずは反省による着色を交えず、それ自体の条件(あるがまま)において直接的に対峙されねばならない。そのとき、そしてそのときに初めて、人は真に即応的になり、その結果として、自発的に倫理的であり得るのだ。状況が明晰に把握されて初めて、反省が必要であるかどうか、またいかなる方法において必要なのかが自ずと明らかになるのである。
しかし、もしその反省を経ない即応が「憤怒」であったならどうだろうか。激怒が引き起こされたという事実をそのまま受け入れ、それを参究せよ。それは状況そのものから生じたものか、それとも概念的に構成された自らの世界観の底にある予断から生じたものか。禅の実践という試金石へと訴えかけるがよい。それは、へそを曲げた利己的な子供の怒りかもしれないし、あるいは万民のために神殿で激昂したイエスの怒り(義憤)かもしれない。そこでは、いかなる倫理的原則も、価値に対する反省的な考量も作用してはいない。自らの行為の証とは、究極的には内部にあり、反省以前のものなのだ。この行為こそが、人を禅仏教的な意味における「自己」たらしめるものにほかならない。
道元に関する我々の考察を締めくくるにあたり、彼が遷化(入滅)の直前に詠んだとされる一首の和歌(辞世の歌)を吟味してみよう。生の本質を詠んだこの歌の内に、我々は、経験の極めて一瞬の瞬間に宿る生命力を捉え、その円満(完全性)を開顕する道元の卓越した力量を感知することができる。
世の中を
何にたとえん 水鳥の
嘴(はし)ふる露に 宿る月影
世界内存在(Being-in-the-world)――それは、一体何にたとえられようか。水鳥の嘴から滴り落ちるわずかな露の滴の内に、静かに宿っている(宿り現成している)月の光の美しさ(月影)にほかならない。