
二年間、会いに行くのはいつも私だった
冬のはじめのころ、晴れていたはずの空から急に降りだして、すぐにやみ、しばらくするとまた降る雨がある。その雨のことを、ひとことで言い表す言葉がある。
これは、その雨をめぐる物語です。
*
発信のボタンを押す前に、一度やめようかと思った。
呼び出し音が一回鳴りきらないうちに、直人が出た。
「おつかれ。どうした、平日に」
「うん。ちょっと」
言うことは昼のうちに決めていた。会社のトイレの個室で、スマートフォンのメモに一行だけ打った。打ってすぐに消したが、もう覚えてしまっていた。
「あ、待って。降ってきた」
電話の向こうで、からからと何かが滑る音がした。窓を開けたらしかった。少し遅れて、細かくて硬いものが金属に当たる音が混じりはじめた。
「聞こえる? 室外機の上」
「聞こえる」
「さっきまで星が出てたんだけどな」
私はベッドの端に腰かけた。カーテンは閉めたままだった。こちらはまだ降っていない。洗面所で洗濯機が終わりの音を鳴らした。立ち上がる気になれなくて、そのままにした。
知り合ったのは友人の結婚式の二次会で、直人ははじめから特急で四十分の町に住んでいた。近いね、と最初は二人で言い合った。
月に一度、土曜の朝の特急に乗るのは私だった。改札の向こうで直人が手を挙げた。日曜の夕方には、同じ改札で「次いつ来れる?」と訊かれた。来て、と直人は何度も言った。行く、とは一度も言わなかった。
先月、私は「今月は無理そう」と送った。直人からは「わかった。無理しないで」と返ってきた。それで終わった。
「やんだ」と直人が言った。「なんだこれ。三分も降ってない」
室外機の音が消えて、遠くを走る車の音だけが残った。
「美緒、こういう雨好きだろ。降ったりやんだりするやつ」
好きだった。直人の部屋で雨に降られた日に、そう話したことがある。
「天気の話をしに、かけたんじゃないから」
直人が黙った。窓を閉める音はしなかった。
私は立って窓のそばへ行き、カーテンの裾を指でつまんだ。手の甲がガラスに触れて、思っていたより冷たかった。
「もう、私からは行かない」
口に出すと、昼に消した一行と一字も違わなかった。
電話の向こうで、また室外機が鳴りはじめた。さっきより少し強い音だった。直人は何も言わなかった。雨の音だけがしばらく聞こえていた。
「……うん」
ずいぶんたってから直人が言った。
「いつも、来てもらってた」
少し間があった。
「帰りの特急に一人で乗るの、俺、無理だと思ってた。そっちから帰るとき」
「私は、毎月乗ってたよ」
言ってから、喉の奥が痛くなった。二年のあいだ、一度も口にしなかったことだった。
「うん」と直人は言った。
「窓、閉めなよ。寒いでしょ」
「寒い」
声が鼻にかかっていた。窓のせいだと思った。
「じゃあ閉めなよ」
「レーダー見てる」と直人が言った。「美緒が来る土曜は、いつもこれ見てた。この雲、線路に沿ってそっちに動いてる。一時間くらいで、そっちも降るよ」
「だから、天気の話は」
最後まで言わずに、私は電話を切った。
スマートフォンをベッドに放って、洗面所へ行った。洗濯機から湿ったシャツを出して、一枚ずつ部屋のハンガーに掛けた。外に干す気はもうなかった。一時間後に降って、すぐにやむ雨のことを考えていた。直人の部屋の窓はまだ開いているのだろうか、とも思った。
最後の一枚を掛けてしまうと、することがなくなった。
窓の外で音がしたのは、それからしばらくしてからだった。
カーテンを開けると、ガラスに小さな粒が斜めにいくつも付いていた。私は窓を開けた。濡れはじめたアスファルトのにおいが、冷たい空気と一緒に入ってきた。ベランダの室外機がぱらぱらと鳴っていた。さっき電話の向こうで聞いたのと同じ音だった。
窓を開けたまま、しばらくそこに立っていた。頬に一粒当たった。指でぬぐうと、頬のほうが雨よりずっと熱かった。
音は三分ほどでやんだ。
ベッドの上でスマートフォンの画面が光った。直人からだった。
〈いまから行く。時雨、もうやんだ?〉
出典
「時雨」——主として晩秋から初冬にかけての、降ったりやんだりする小雨(精選版 日本国語大辞典)。冬の季語(デジタル大辞泉、精選版 日本国語大辞典)。
季節のことばをひとつ選んで、短い物語を書いています。
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