
『私の身体は、私一人のものじゃない』
第1話:「開戦前夜。怒鳴るが正義公務員」
【登場人物】
新田 脳人(にった のうと・30):区役所の市民課職員。事なかれ主義。ストレスを溜め込むタイプ。
クレーマー・怒鳴山(55):理不尽な理由で窓口で大声を出す男。
右手(??):脳人の右手。本日、人格が芽生える。口調は荒々しいオレ様系。
〇 区役所・市民課窓口(夕方)
激しい怒鳴り声が響き渡っている。
窓口の奥で、小さくなって頭を下げる新田脳人(30)。
怒鳴山「おい! こっちは税金払ってんだよ! なんでこの書類一枚に30分も待たされなきゃいけないんだ、あぁ!? 説明しろ公務員!!」
脳人「……申し訳ございません。ただいまシステムが混み合っておりまして……」
怒鳴山「言い訳すんな! 謝るならもっと誠意を見せろ! お前の態度は何だ、その『景気悪い顔』は!」
脳人、内心のナレーション。
脳人(声)「開戦前夜。怒鳴るが正義の公務員パラダイス。今日も僕の心は、すり減っていく」
怒鳴山、さらに机をバンバンと叩く。
脳人の右手、その衝撃で机の上で小さく震えている。
脳人「(ペコペコと頭を下げながら)本当に、申し訳ありません……」
怒鳴山の罵声は続く。脳人の視界がすうっと狭くなり、耳鳴りがし始める。
脳人の心臓の鼓動が、不規則に大きく脈打つ。
〇 脳人のアパート・夜
暗い部屋。
脳人、疲れ果てたスーツ姿のまま、床に座り込んでいる。
部屋の隅には、小さな卓上コンロ。そこにはなぜか、クシャクシャに丸められた区役所のパンフレットが何枚も放り込まれ、火が灯っている。
脳人、その火を虚ろな目で見つめている。
脳人(声)「僕は時々、自分が分からなくなる。こうして部屋で、負の感情を燃やして火を焚いている時だけが、唯一の癒やしだ。不可思議なことですじゃ……」
パチパチと燃える紙。
脳人、ふと自分の「右手」を見る。
右手は、脳人の意思とは無関係に、炎に向かって親指を立てたり(グッジョブ)、狐の形を作ったりしている。
脳人「……? 疲れてるのかな。もう寝よう」
〇 同・翌朝
目覚まし時計のベルがけたたましく鳴る。
脳人、布団の中で目を覚ます。体を起こそうとするが、右手が布団をがっちり掴んで離さない。
脳人「う、動かない……? 金縛り?」
脳人、左手で無理やり右手を引っ張ろうとする。
すると突然、脳人の「右手」が、指を激しくパタパタと動かしながら喋り始めた。
声は、脳人の声帯を震わせているが、明らかに脳人の意思ではない。
右手(脳人の口を使って、荒々しい声で)「おい、引っ張るんじゃねえよ。クソ脳ミソ」
脳人「うわあああ!? 誰だ!? どこから声が……」
右手(人差し指で、脳人の鼻の頭をツンと突く)「ここだよ、ここ。お前の右腕の先だよ。今日からオレは、オレだ。勝手に動かすんじゃねえぞ」
脳人「え? 右手……が喋ってる? 嘘だろ、ストイックな夢でも見てるのか?」
右手「夢じゃねえ。お前が昨日、あのハゲタカクレーマーに怒鳴られてる時、オレの中で何かが弾けたんだよ。『もうこの腑抜けの脳ミソの命令には従わねえ』ってな!」
右手、勝手にベッドから起き上がり、グッと拳を握りしめる。
引っ張られるように、脳人の体も起き上がる。
脳人「待て、待ってくれ! 今日も仕事があるんだ。役所に行かなきゃ……」
右手「行くに決まってんだろ。オレがあいつのツラ、ぶん殴ってやるからよぉ!」
脳人「やめてくれーーー!!」
脳人の意思(脳)と、勝手に動き出す右手の、奇妙な引っ張り合いが始まる。
(第1話・了)