
「君が代」を歌った男は、なぜ2度消されたのか—忌野清志郎と音楽の自由
【導入】現在進行形の「君が代」問題
2024年、東京都内の公立高校の卒業式で、「君が代」斉唱時に起立しなかったとして、教員が戒告処分を受けた。
この種のニュースは、もはや珍しくない。2003年に東京都教育委員会が「君が代」斉唱・起立を義務づける通達を出して以来、処分を受けた教員は累計で数百人にのぼる。裁判になったケースも多く、最高裁まで争われたものもある。
「君が代」をめぐる緊張は、今も日常の中に静かに、しかし確実に存在している。
この問題を、ひとりのロックミュージシャンが正面から歌にした時代があった。
忌野清志郎。RCサクセションのボーカリスト。「君が代」を、パンクのリズムで、自分の言葉で歌った男だ。
彼は2度、レコード会社に発売を阻まれた。しかし2度とも、市場は彼の歌を求めた。そして2009年、58歳で死んだ。
語ることのコストを、清志郎はどこまで知っていたのか。そして私たちは、彼が残したものをどう受け取ったのか。
【Part1】「応援しています、本当に」——矛盾した広告文の異様さ
1999年は、奇妙な年だった。
バブル崩壊から10年近くが経ち、日本社会は慢性的な不況の中にあった。政治の世界では、国旗と国歌をめぐる法整備の議論が国会で続いていた。「日の丸」と「君が代」を、法律によって正式に国旗・国歌と定める——国旗国歌法案をめぐる議論は、その年の夏にかけて緊迫の度を増していた。
その年、忌野清志郎はアルバム「冬の十字架」をポリドールから発売する予定だった。収録曲のひとつに、「君が代」のパンクアレンジがあった。
ポリドールは、発売を拒否した。
理由は公式には明かされなかった。しかしポリドールは、ある広告を出した。
「忌野清志郎様 応援しています、本当に。 ポリドールレコード」
この一文を初めて読んだ時、多くの人が奇妙な感覚を覚えたはずだ。応援している、と言いながら、出せない。支持している、と言いながら、止める。広告として打ち出されたその言葉は、企業が抱える矛盾を、そのまま文字にしたようだった。
1999年8月、国旗国歌法は国会で成立した。「君が代」は正式に日本の国歌となった。
その政治的空気の中、清志郎の「君が代」は封じられた。
しかし清志郎は動じなかった。「冬の十字架」は、インディーズレーベルのSWIM RECORDSから発売された。結果は、即日品切れ。増刷を重ねても、追いつかないほどの需要があった。
市場は、歌いたかった。あるいは、聴きたかった。レコード会社が「出せない」と判断した歌を、多くの人が求めた。この逆説は、今も静かに、問いとして残っている。
【Part2】「素晴らしすぎて発売できません」——11年前の前例
実は、清志郎にとってこれは初めての経験ではなかった。
1988年、RCサクセションはアルバム「COVERS」を東芝EMIから発売する予定だった。洋楽の名曲をカバーしたアルバムで、その中には反原発・反核をテーマにした曲が複数含まれていた。「ラブ・ミー・テンダー」をベースに反原発の歌詞をのせたものや、核兵器への抗議を直接的に歌ったものがあった。
東芝EMIは、発売を中止した。
親会社の東芝が原子力事業を手がけている——その事実が、発売中止の背景にあったとされる。公式な説明はなかった。しかし東芝EMIも、ポリドールと同じように、広告を出した。
「素晴らしすぎて発売できません」
この広告文もまた、奇妙だった。素晴らしいのに出せない。評価しているのに封じる。11年後の「応援しています、本当に」と、構造がそっくり重なる。
日本のレコード会社は、封じる時に「称賛」する。
発売予定日は8月6日——広島に原爆が投下されたその日——だった。結果的に「COVERS」はキティレコードから8月15日、終戦記念日に発売された。RCサクセション初のオリコン1位を記録した。
翌1989年、清志郎は覆面バンド「THE TIMERS」を結成する。素性を隠し、パンクのリズムで社会を風刺する。発売中止への、清志郎流の反撃だった。
1988年から1999年。清志郎は11年の間に、同じ構造に2度ぶつかった。封じられ、迂回し、市場に届けた。そのたびに、彼を求める声があった。

【Part3】ひとりの男が、2つの現場にいた
ここで、ひとつの事実を記録しておきたい。
石坂敬一という人物がいる。
1988年の「COVERS」発売中止の際、石坂は東芝EMIの統括本部長という立場にあった。そして1999年、彼はポリドールの社長となっていた。
2度の発売中止。それぞれ異なるレコード会社で起きたその出来事の、両方の「現場」に、同一人物がいた。
石坂はその後、日本レコード協会の会長も務め、音楽業界の重鎮として広く知られる存在になった。
この事実が何を意味するのか、私には断言できない。業界の構造なのか、時代の空気なのか、個人の判断なのか。ここでは記録として置くにとどめる。
ただ、この偶然とも必然ともつかない一致は、2度の発売中止が「個別の事件」ではなく、何らかの連続性の中にあったことを示唆している。そう感じる読者がいても、不思議ではない。
【Part4】2009年5月2日以降——「君が代」は誰のものか
2003年4月、東京・武道館でアースデイ・コンサートが開かれた。TOKYO FMが生放送していたその舞台で、忌野清志郎は突如「君が代」を演奏し始めた。
放送はカットされた。
以後、清志郎はアースデイコンサートに呼ばれなくなった。
1999年の「冬の十字架」から4年。清志郎の「君が代」は、まだ封じられ続けていた。封じる主体は変わっても、構造は同じだった。
1999年10月、清志郎は坂本龍一、筑紫哲也との鼎談に応じている(週刊金曜日)。そこで清志郎は「君が代」について、率直に語った。なぜ歌うのか。何を伝えたいのか。その言葉は、攻撃的でも扇動的でもなく、どこか静かなものだったと伝えられている。
2009年5月2日、忌野清志郎は死んだ。咽頭がん。58歳だった。
彼が死んだ後も、「君が代」問題は続いた。2024年現在も、卒業式での不起立を理由に処分を受けた教員がいる。裁判は続き、判決が出るたびに小さなニュースになる。
清志郎がいなくなっても、問いは消えなかった。むしろ、答える人間がひとり減った分だけ、問いは重くなったかもしれない。
語った結果、干された男。しかしその男が語り続けたことで、問いは今も生きている。

【Part5】1999年、私は「愛し合ってるかい」という言葉を信じていたか
清志郎さんはいつも、ライブの最後にそう叫んでいました。
「愛し合ってるかい!」
1999年、私は38歳でした。国旗国歌法が通過したニュースをテレビで見ながら、何か遠い話のように感じていた記憶があります。清志郎さんの「君が代」がインディーズで出て、品切れになったと聞いた時、「さすがだな」と思いました。でもそれだけでした。
自分で歌おうとは、思わなかった。
週末にギターを抱えて歌う自分が、「君が代」を題材にした曲を演奏する場面は、想像できなかった。お客さんが引くかもしれない、と思った。あるいは、自分自身が、その問いを正面から引き受ける覚悟を持っていなかったのかもしれません。
清志郎さんは「愛し合ってるかい」と言い続けた。政治を語る時も、「君が代」を歌う時も、その根っこにあったのは、この言葉だったんじゃないかと今は思います。シンプルだけど、この言葉こそ平和の本質だと私は信じています。
愛し合っているなら、戦えない。愛し合っているなら、誰かを黙らせることはできない。
でも私は、1999年に清志郎さんと同じように「愛し合ってるかい」と声に出せたか、と問われると、正直わかりません。
語ることのコストを、彼は引き受けた。私は引き受けなかった。その差はどこから来るのか。才能なのか、覚悟なのか、それとも——時代の風の吹き方なのか。
清志郎さんは2度消された。私は一度も、消されるほどのことを言わなかった。
どちらが正しかったのか、私にはまだわかりません。ただ、「愛し合ってるかい」という言葉だけは、今も信じていたい。そう思いながら、週末にギターを抱えます。
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