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ロックは反体制でなければならないのか——布袋寅泰に対する批判が語るもの

    導入「俺のギターヒーローが、消えた」

    2026年4月、布袋寅泰がXに投稿し、削除した。

    そのニュースを知ったとき、ぼくは少しの間、画面を見つめたまま動けなかった。

    投稿の内容はこうだ。「未だかつて日本の首相がロックンロールと交わったことがあったか?素晴らしいことなんだよ」。ディープパープルが高市早苗首相と官邸で面会したことを受けての、率直な言葉だった。しかしその投稿は、翌朝には消えていた。

    ぼくがギターを弾き始めて、四十五年が経つ。その四十五年の中で、布袋寅泰のギターは何度もぼくの「ギターとはこうあるべき」という感覚を更新してきた。

    BOØWYのリフ、ソロ期の高速カッティング、アバンギャルドなアレンジの中に光るポップな旋律——そのすべてが、ぼくの音楽の土台の一部になっている。

    そのギタリストが「素直に呟いた」言葉を消した。

    最初に感じたのは、驚きではなかった。「やっぱり」という、少し重たい理解だった。この連載を七十九本書いてきて、語ることで叩かれるミュージシャンを繰り返し見てきた。だから「やっぱり」だった。

    こういうことが起きるから、みんな黙っていくのだ——という理解。

    この記事は、布袋寅泰を批判するためのものではありません。むしろ逆だ。布袋が語り、削除し、説明したという一連の出来事の背後にある構造——語っても叩かれる、削除しても叩かれる、説明しても叩かれる——その三重の袋小路を考えたい。

    そしてその袋小路が、この国の言論空間に何をもたらしているのかを。

    この連載は七十八本目でSUGIZOを、七十九本目で小泉今日子を取り上げてきた。どちらも「なぜ日本の音楽家は政治を語らないのか」という問いに対して、「それでも語り続ける者」として描いた。

    八十本目の布袋寅泰は、少し違う角度からその問いに答えている。語ったけれど、消えた。その「消えた」という事実の意味を、ここから考えていきます。

    Part1「ギタリスト布袋寅泰——その軌跡と、ぼくへの影響」

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    ①BOØWYという革命

    1981年、BOØWYは「暴威」として活動を開始した。

    氷室京介のボーカルと布袋寅泰のギター。この組み合わせが、八十年代の日本ロックシーンに何をもたらしたかを、ひとことで言えば——「ロックは日本語でできる」という確信だ。

    それまでの日本のロックバンドが欧米の模倣から抜け出せずにいた時代に、BOØWYは徹底的に日本語の音として機能するロックを作った。

    ぼくが初めてBOØWYを聴いたのは、一九八五年頃、十八歳のときだった。エレキギターを始めてまだ四年しか経っていなかった。あの頃のぼくに、布袋のギターはまず「違う」という感覚として届いた。

    歪んでいるのに整然としている。攻撃的なのに美しい。「自分が四年間練習してきたギターと、何かが根本的に違う」という感覚。何が違うのかはすぐにはわからなかった。しかし確かに、違った。

    BOØWYは一九八八年に解散した。しかしその解散が、布袋寅泰という個人を、より大きな場所へ連れていくことになった。

    ②ソロという選択

    BOØWY解散後、布袋は氷室京介とのユニットCOMPLEXを経て、同年『GUITARHYTHM』でソロデビューを果たした。

    このアルバムは、BOØWYの延長線上にはなかった。アバンギャルドでありながらポップ、実験的でありながら聴きやすい——この一見矛盾した方法論が、布袋のソロとしての独自性を作った。

    バンドという制約から解放された布袋が、純粋にギタリストとして何を表現しようとしたかが、GUITARHYTHMシリーズには凝縮されている。

    ぼく自身の音楽への影響という意味で言えば、このソロ期の方がBOØWY時代より深い。「アバンギャルドだけれどもポップ」という方法論——難しいことを難しいまま届けるのではなく、難しいことを入口だけ広くして届ける——その姿勢を、ぼくは布袋のソロから学んだと思っている。

    GUITARHYTHMというタイトルは、ギターとリズムを組み合わせた造語だ。ギターがリズムを担う、リズムがギターとして機能する——その相互浸透が、布袋のギタースタイルの核心にある。

    シリーズは現在も続いており、布袋が「進化し続けるギタリスト」であることを示し続けている。

    ③湾岸戦争とロンドン

    一九九一年、布袋は『GUITARHYTHM II』の制作のためロンドンに渡った。

    レコーディングは発電所を改築したというメトロポリス・スタジオで行われた。しかしその制作の最中、湾岸戦争が勃発した。布袋は一時帰国を余儀なくされ、一部の作業は都内のスタジオで行われることになった。

    戦争とは、音楽の現場にも直接やってくる。レコーディングを中断させ、スタジオを閉め、アーティストを故郷に追い返す。布袋はその体験を身体で知っている。だからこそ、彼の反戦への姿勢は観念的ではなく、体験に根ざしている。

    この事実は、今回の「ディープパープル×高市首相」への肯定的な発言と一見矛盾するように見えるかもしれない。しかしぼくにはそう思えない。「ロックンロールと政治が交わること」への期待と、「戦争への反対」は、同じ根から来ている可能性がある。

    音楽が政治に影響を与えること、音楽家が社会と交わることへの信頼——布袋がディープパープルと高市首相の面会に感じた「素晴らしさ」は、そういう文脈で読めるのではないか。

    あの頃ぼくは二十三歳だった。ギターを弾き続けながら、テレビの前でただ呆然としていた。戦争が遠い国の出来事ではなく、ロンドンのスタジオでギターを録音していた男の制作を中断させたという事実を、今さらながら重く受け取っている。

    ④高速カッティングという言語

    布袋寅泰のギタースタイルを語るとき、高速カッティングという言葉は避けられない。

    単に速い、という話ではない。布袋の高速カッティングは、リズムと旋律が同時に機能する。バッキングでありながらリードでもある。コードを刻みながら、メロディが浮かび上がる。

    右手のストロークの速さだけでなく、左手のミュートのタイミングが異常に精密だ。あの二つが同時に機能しているから、あの音になる。この「二つの役割を同時に果たす」というスタイルが、布袋のギターを他と区別する。

    ギタリストとして言わせてもらえば、これは途方もなく難しい。速さだけなら練習で近づける。しかし「速さの中に音楽がある」という状態は、練習で届く場所ではない。布袋のカッティングを真似しようとして、できなかった経験が何度もある。

    最近になって、ようやく布袋のプレイスタイルを自分の音楽に取り入れることができるようになってきた。「できるようになった」というより、「ようやく自分の音として消化し始めた」という感覚に近い。

    四十年かけて、ようやくそこに立てた。それほど布袋のギターは深い。

    言語は、その人の思考の形だ。布袋の高速カッティングが唯一無二であるということは、布袋の音楽的思考が唯一無二だということだ。そのギタリストが「素直に呟いた」言葉を、ぼくは軽く見ることができない。

    ⑤公的イベントという選択

    布袋寅泰は、国家的な公的イベントに繰り返し出演してきた。

    一九九六年のアトランタオリンピック閉会式、二〇二一年の東京パラリンピック開会式——いずれも政府・行政が深く関わる舞台だ。これは「政府へのすり寄り」なのか。あるいは「音楽の力を最大の舞台で発揮する」という選択なのか。

    二〇二三年、BOØWYのドラマーだった高橋まことが「もうこの三流国日本には五輪も万博も要らねえよ」と発言したとき、布袋は「何も知らずに言うこと言うな」と反論した。この反論を「政府支持」として読む人もいた。

    しかしぼくには、そう読めない。自分が出演した舞台を、内側を知らずに批判されることへの怒り——それは「政府を支持する」という話ではなく、「自分の選択を尊重してほしい」という要求に近かったのではないか。なお、布袋はこの反論もその後削除したとされている。

    布袋にとって、公的なイベントへの出演は「音楽家として社会と関わる」という積極的な選択だったはずだ。ロックは社会の外に立つものではなく、社会の中に入り込んで何かを変えようとするものだ——という信念が、その選択の背景にある可能性がある。

    そしてその信念の延長線上に、「日本の首相がロックンロールと交わった、素晴らしい」という発言があったとしたら——その言葉の意味は、単純な政治的賛同とは、少し違って見えてくる。

    ここから先は、その「素晴らしい」という言葉が、どのように叩かれ、削除され、説明されたかを見ていく。布袋が語り、消えていったその過程は、この国で音楽家が発言することの現在地を、最も鮮明に映し出している。

     
     
    ロックと人生。ときどき政治。 音楽が先に鳴らしていた違和感を、 日本人の感覚から考えています。 代表作: ・ロックはなぜ戦争を嫌ってきたのか ・吉川晃司は、なぜアベフトシをステージへ呼び戻したのか ・はっぴいえんどは、なぜ「日本語でロック」を成立させたのか

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