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歊士道 第14ç«  #50

    #50  The following epistle written  by the wife of a young daimio, before taking her own life,  needs no comment:

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    私の蚳
    自ら呜を断぀前に、䞀人の若き倧名〔朚村重成〕の劻によっお曞かれた次の手玙は、䜕等の蚻解を芁しないであろう。

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    最埌に朚村重成のこずを詳しく蚘した。このようなこずが分からないず、やはりピンずこないのではないか。分かるず英語もよく分かるのである。


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    朚村重成劻・青柳ずの別れず意倖な最期
    楠戞矩昭歎史䜜家

    「和囜随䞀の矎男」にしお勇気ある歊将ず称えられる朚村長門守重成は、真田幞村、埌藀又兵衛ずずもに、豊臣家滅亡の最埌の決戊で散った倧坂方゚ヌスの䞀人だった。
    幎霢いただ23歳、銖実怜で埳川家康が髪から挂う銙の匂いに、「倩晎れな歊士」ず称えた。
    その銖塚が滋賀県圊根垂本町の宗安寺にある。銖を取った井䌊家家臣・安藀長䞉郎重勝が䞁寧に自分の墓地に埋葬し、子孫がその墓を倧事に守っおきたからである。
    重成の初陣は冬の陣だった。倧坂城の北東、倧和川北岞の今犏を家康方の䜐竹矩宣隊が攻め、四重にもうけた朚柵を突砎しようずした。駆け぀けた重成はこれを抌し戻す芋事な働きをした。
    この圌の出自は必ずしも明らかでなく、近江の䜐々朚氏の䞀党である朚村垞陞介重茲の息子ずする説が有力である。重茲は関癜秀次の執暩ずしお出䞖する。だが秀吉は誕生した秀頌可愛さから、秀次に眪を着せお葬り、重茲もたた眪に問われお自刃した。この時、重成はわずか歳だった。
    それにしおも皮肉なのは重茲が父芪ずいう説をずる堎合、秀次远い萜ずしの䞻因ずなった秀頌の乳母が重茲の劻・宮内卿ずいうこずになる。重成ず秀頌は乳兄匟なのだ。このため重成は淀殿に可愛がられ、3000石をもらい、豊臣ファミリヌずしお重きをなし、倧坂の陣では䜜戊䌚議などに加わり、䞀方面をになう歊将になる。

     倧坂冬の陣で和睊が成った際、重成は家康から誓詞をもらうため、茶臌山の家康本陣に代衚の䞀人ずしお出向いた。この時に家康の血刀が䞍鮮明ず苊蚀を呈し、家康に血刀をやり盎させた。家康は芋どころある若者ずしお顔を芚えた。
     容貌にすぐれた重成に奇想倩倖な逞話がある。倧坂の陣の発端は、京郜方広寺の梵鐘銘文が家康を呪ったものであるず因瞁を぀けられたこずだった。この匁明に淀殿の乳母・倧蔵卿局ず秀頌の槍の指南圹だった正栄尌が、駿府の家康のもずに匁明に向かったが、この䞀行に重成も加わっおいた。それは敵状を探るためだったが、驚くこずに圌は女装しお䟍女に扮しおいたずいう。たさに女以䞊に女らしい矎しさに、その䟍女が男であるこずに気づく者は誰もいなかった。
     その矎貌を女たちも攟っおおかなかった。倧坂冬の陣のさなか、倧蔵卿局の姪である青柳が恋をした。重成に「恋䟘びお絶ゆる呜はさもあらはあれ 扚も哀れずいふ人もかな」ずの歌を短冊に認めお莈った。「恋煩いをしお死ぬも本望、哀れず思っおくれる人もいたすね」ずいう意味である。重成はこの歌に応えお、冬の陣が終わっおすぐ青柳を劻に迎えた。だがその幞せは倏の陣の戊乱に搔き消えおしたう。時に戊いの真っ最䞭、人は死を芚悟しお結ばれた倫婊であった。倏の陣の決戊は慶長20幎1615月日ず日の日間である。出陣の前倜、重成は劻青柳の぀ぐ酒に快く酔った。だが愛情蟌めお぀くった料理には手を付けなかった。いぶかる劻に「むかし埌䞉幎の圹で、戊功のあった八幡倪郎矩家の家臣・末割四郎が、敵の矢に喉を射貫かれた時、飯粒が出お、恥蟱を受けたずいうこずだ。五穀を胃に入れお戊い、蚎たれた埌、汚物を残すこずはあっおはならない。だから食事はずらないのだ」ず答えた。劻はその倫の芚悟に心を打たれた。
    青柳は倜、出陣する倫の持ち物を揃え、忘れ物がないか点怜した。そしお最埌、重成が぀ける兜の内偎に、倫が奜むずころの名銙を入念に焚き蟌んだ。

    重成蚎ち死にの意倖な真盞、劻子の運呜は  
     重成は日午前時、兵4700を率いお、長宗我郚盛芪軍ずずもに倧坂城の東キロ先の八尟倧阪府八尟垂・若江同東倧阪垂方面ぞ出撃した。䞀方の埳川方は右先鋒が藀堂高虎5000、巊先鋒は井䌊盎孝3200だった。未明に倧坂方の倧軍を芋぀けたずの斥候の知らせに、高虎は八尟にいた長宗我郚軍を襲ったが散々に撃退された。䞀方の重成の巊翌隊も藀堂軍に䞀撃を食らわせた。藀堂軍は䞡方の戊いで名のある将人を含め300人䜙りを倱った。『薩藩旧蚘』が「高虎家䞭で圹に立぀ほどの人々は残らず戊死を遂げた」ずいうほどの倧打撃だった。
     この時、盎孝は圓初の蚈画通り、道明寺方面に出撃しようずしおいた。そこに高虎から救揎芁請を受けお攻撃目暙を倉え、他藩の兵も含め5600人を率いお若江に進撃し、朚村隊ず遭遇した。
    重成は玉䞲川の堀䞊に鉄砲隊を配備し、䌏兵も配しおいた。田の畔を進んだ井䌊の巊先鋒・河手良列が攻め掛かり、堀を占領したが、さらに突撃しお重成の䌏兵の攻撃によっお戊死した。続いた右先鋒の庵原朝昌の1000も撃退される。先鋒隊の盞次ぐ敗北に怒った盎孝は、本隊を率いお重成の本隊に襲いかかった。
     はじめは互角だった。しかし重成の軍勢は藀堂軍ず戊った埌の床目の戊いだけに、疲劎から攻撃が鈍り、新手の盎孝本隊ずの差が埐々に珟われはじめた。朚村隊は負けが濃厚ずなっお、家臣たちは重成に戊線離脱を促したが、これを拒吊しお最埌たで戊堎に留たった。

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     井䌊家の先鋒を぀ずめ撃退された家老・朝昌は名誉回埩ずばかりに再び戊い、重成ず遭遇した。そしお死闘の末に朝昌に埓った安藀長䞉郎が重成の銖を取ったずされる。だがそれは事実ではないずもいわれる。
    乱戊の䞭で、重成は朝昌ず遭遇し銬䞊から槍を突き出し合っお䞀階打ちずなった。朝昌が重成の癜母衣を十文字槍でひっかけお匕くず、重成は田圃にう぀䌏せに萜䞋した。そこを朝昌の若党、人が折り重なっお抌さえ぀け、重成の銖を取った。
     ちょうどそこに安藀長䞉郎が来合わせお「ただ自分は䜕の手柄も立おおいない。その銖を頂けたいか」ず蚀った。するず朝昌は「これが重成なら向こうの倧将で、お前にも䞍足はなかろう。 某には党軍を指揮する圹目がある。だから銖をお前にやる。ただ某が蚎ち取った蚌拠に、盞手の指物の金の捻り竹の印はもらっおおく」ず蚀い、銖を長䞉郎に枡した。長䞉郎はそれを拟い銖だず蚀っお盎孝に差し出した。これが重成の銖が長䞉郎に枡った真盞だずいう。
     その日の倕刻、枚岡東倧阪垂の本営で、家康・秀忠の前にこの日蚎ち取った数癟の銖が䞊べられ、銖実怜が行われた。家康が最初に手に取ったのが重成の銖だった。家康には血刀の䞀件で忘れられない敵将であった。
    するず頭髪のあたりから埗もいわれぬ空炷きの薫銙が挂っおきた。家康はその銙りに今日を死ず決した芚悟を感じ取った。家康は「若茩にしお比類ない歊士じゃ」ず思わず嘆声を挏らした。
    ここに井䌊軍の名声が高たり、盎孝を喜ばせた。その経過はどうあれ、その銖をあげたこずが井䌊軍の誉れずなり、長䞉郎は重成を蚎った歊将ずしお称賛された。
     『井䌊幎譜』によれば、長䞉郎は家康から重成が぀けおいた腰の物ず黄金枚、矜織を賜った。たた盎孝から今回の手柄に察し300石が䞎えられ、さらに200石が加増され、埓来の200石から3.5倍の700石に昇進した。
    圊根に垰った長䞉郎は菩提寺・宗安寺の安藀家の墓域にねんごろに重成を葬り、子孫にも祭祀を絶やさぬように遺蚀しお幎埌に死んだ。
    ここで愛する倫を倱った青柳に觊れおおきたい。圌女は重成ずずもに䞉途の川を枡りたかった。だが圌女は劊嚠しおいた。淀殿・秀頌母子が自刃、これに重成の母宮内卿も殉じ、豊臣家が滅びたのは重成の死からわずか日埌であった。

     青柳は䜕ずか城を脱出するず、瞁を頌っお近江蒲生郡銬淵の里滋賀県近江八幡垂の庄屋・銬淵家に身を寄せた。ここで男子を無事に出産するず、黒髪を切っお尌になり、倫の冥犏をひたすら祈る日々を送った。やがお倫の䞀呚忌がやっおくる。19歳の青柳に、この䞖ぞの未緎はなかった。圌女はその倜、持仏堂に入り、端然ずしお自害した。息子は銬淵家で成長した。
    ※本蚘事は、楠戞矩昭著『戊囜歊将「お墓」でわかる意倖な真実』文庫より、䞀郚を抜粋線集したものです。



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