
白でも黒でもない世界でー「見えるか保己一」感想ー
SNSを覗けば、毎日のように炎上やトラブルが話題になっている。
白か黒か。
善か悪か。
いったんそのリングに上がってしまえば、簡単には降りられない。
私は怖くて上がれないのだが、そこにスリルや快感を覚える人もいるのだろうか。
けれど、現実の世界は白黒だけで割り切れるほど単純ではない。
私たちは日々、「どちらとも言えないもの」に悩み、「わからなさ」と向き合いながら生きている。
それはそれでしんどい。
なぜなら、「わからない」という状態は不安だからだ。
小学生の頃、答えに自信がなくて手を挙げられなかった。
「わかりません」と言うことさえ怖かった。
あるいは、突然暴れ出す男子を前に、「何を考えているのかわからない」と恐怖を感じたこともある。
正解がわからない。
相手の気持ちがわからない。
その根底にあるのは、自信のなさなのだと思う。
そんな、答えの出ない『わからなさ』に怯える私に、そっと寄り添い、同時に冷や水を浴びせてくれたのが、蝉谷めぐ美の『見えるか保己一』だった。
第39回山本周五郎賞受賞作。
第175回直木賞候補作でもある。
主人公は、国内最大の叢書『群書類従』の編纂で知られる江戸時代の国学者、塙保己一。七歳で失明しながらも、類まれな記憶力と洞察力を武器に学問の道を切り拓いていく。
物語は、目の見えない保己一だけでなく、彼を取り巻く「目の見える人々」の視点からも描かれる。
まず各章のタイトルが素晴らしい。
「むしの子」「虫の子/霧視の子」
「すでに触れて」「素手に触れて/既に触れて」
「はんぎ、蔵にて」「版木、蔵にて/半疑、蔵にて」
同音異義の言葉を重ね合わせることで、さまざまな意味を想像させる。
目の見えない者が抱える「わからなさ」。
目の見える者が抱える「わからなさ」。
その両方の痛みが、章題の時点ですでに表現されているように感じた。
本作が面白いのは、保己一を単なる偉人として描いていないところだ。
子どもの頃に読んだ偉人伝では、偉人はいつだって立派で正しい人だった。
けれど、この物語の保己一は違う。
愚かで、不器用で、人間くさい。
自分では善かれと思ってしたことが、相手にとっても善いこととは限らない。誰もが一度は経験したことのある、そのすれ違い。
だからこそ共感するし、自分自身を振り返らされる。
そんな人間の愚かさと愛おしさを描けるところが、蝉谷作品の魅力なのだと思う。
とはいえ、私はまだ蝉谷作品を二作しか読んでいない。
前に読んだ『万両役者の扇』もそうだったが、本作も最終章で世界がひっくり返った。
それまで見えていた景色が一変し、思わず心の中で、
ええぇぇぇーー!
驚き桃の木山椒の木!!と叫んでしまった。
思い込みが剥がれ、まったく違う世界が立ち上がる。
読者の「見えているつもり」を鮮やかに裏切ってくるのだ。
作中には、こんな言葉がある。
「正しく見えるものなんてこの世に何一つとありゃしねえんだよ!」(本文より)
まさに本作を象徴する一言だと思う。
人は見たいようにしか見ない。
だからこそ、言葉を重ねるしかない。
わかり合えない部分を抱えながら、それでも相手を見ようとするしかない。
見えないからこそ見えるものがある。
そんなことを考えさせられた作品だった。