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[十字架の道]赤い血に覆われた十字架の道――御怒りの夜を越え、和解の朝へ

    日本オリベットアッセンブリーと共に黙想する、棕櫚の主日と受難節の終わり。十字架の血によって成し遂げられた和解と贖いの恵み、そしてキリストのうちに与えられる真の救いの福音をお伝えします。

    御言葉本文/聖書箇所: ローマ人への手紙5章6~11節

    エマオの灰色の夕暮れの中で出会う、救いの物語

    エルサレムを後にし、失望のうちにエマオへと向かっていた二人の弟子たち。その心は、深い絶望に包まれていました。なぜなら、彼らが愛し、信じ従ってきたイエスが、十字架という最も残酷な刑具の上で、無残にも命を奪われてしまったからです。人々が期待していたのは、栄光に輝く凱旋将軍のような救い主でした。しかし、彼らの目の前で起こったのは、その期待とはあまりにもかけ離れた、十字架の死だったのです。ところが、その失意の道を歩む二人のそばに、復活されたイエスご自身が近づき、共に歩いてくださいました。そして、聖書の御言葉を一つひとつ解き明かしてくださいました。それでも、二人はその方がイエスであることに気づきませんでした。ようやく彼らの目が開かれたのは、食卓でイエスがパンを裂かれた、その瞬間でした。そのとき初めて、道中ずっと自分たちと共に歩み、御言葉を語ってくださっていた方こそ、死からよみがえられた主イエスであったことを悟ったのです。

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    スイスの画家ロベルト・ツュント(1827〜1909年)による絵画**『エマオへの道』
    “Road to Emmaus,” by the Swiss painter Robert Zund (1827-1909)


    人類の歴史を通して語り継がれてきた棕櫚の主日の出来事にも、これとよく似た光景が見られます。人々は棕櫚の枝を振りながら、イエスを熱狂的に迎えました。彼らが期待していたのは、敵を打ち破り、栄光に輝く勝利の王として自分たちを救ってくださるメシアでした。ところが、イエスはそのような人々の期待とは異なり、小さなろばに乗って、へりくだった姿でエルサレムの都へと入って行かれたのです。ここで思い起こされるのが、レフ・トルストイの古典的な短編小説『人は何によって生きるか』です。この物語に登場するミハイルは、さまざまな人々との出会いを通して、神の裁きと憐れみ、そして人間を生かしている愛の意味を少しずつ悟っていきます。それと同じように、私たちもまた、人間の目には愚かで弱々しく映るものの中に、神の深い知恵と愛が隠されていることに気づかされます。まさに、人々の目には敗北としか映らなかった十字架の道こそ、神が永遠の昔から備えておられた、完全な救いのご計画だったのです。日本オリベットアッセンブリーでは、十字架に示された神の深い愛と救いの真理が、御言葉を通して分かち合われています。そこには、今日を生きる私たち一人ひとりに向けられた、変わることのない神の恵みと希望が込められているのです。

    剣と槍ではなく、尊い血の代償によって成し遂げられた贖いの法則

    人々は、神の裁きがこの世の権力や武力によってもたらされるものだと誤解していました。しかし、聖書が語る救いの道は、「贖い(Redemption)」、すなわち代価を支払うことによって人を解放するという道だったのです。「贖」という文字には、代価を支払って奴隷を買い取り、自由にするという意味が込められています。私たちもまた、罪に捕らわれた霊的な囚人のような存在でした。自分の力では、罪に対する刑罰からも、神の御怒りのもとからも逃れることができなかったのです。

    しかし、キリストは、ご自身のいのちをただ一度ささげることによって、私たちが負っていた罪の負債をすべて、完全に清算してくださいました。私たちがまだ弱く、自分の力ではどうすることもできなかったとき、そして、なお罪人であったときに、キリストは不敬虔な者たちのために十字架で血を流してくださったのです。神は、このキリストの十字架を通して、私たちに対するご自身の愛をはっきりと示してくださいました。日本オリベットアッセンブリーでは、この驚くべき救いの恵みが、いのちの福音として分かち合われています。それは、私たち自身には神の前で誇れる功績が何一つないにもかかわらず、ただキリストの血によって義とされたという、驚くべき宣言です。

    徹底したへりくだり――高慢の城壁を打ち崩したケノーシスの奇跡

    人間の堕落の根には、常に「神のようになりたい」という高慢があります。イザヤ書に描かれている明けの明星の堕落を思い起こしてみてください。人間もまた、神に従うよりも、自分自身の知恵と力によって王となり、自分の人生を支配しようとしてきました。このような人間の高慢の罪を裁くために、主イエスは天の御座を離れ、ご自身を空しくして、しもべの姿を取られたのです。これこそが神学でいう「ケノーシス(Kenosis、自己を空しくすること)」です。

    人間の哲学や理性だけでは、「死ぬことによって生きる」という十字架の逆説を、十分に理解することはできません。この世の知恵は、力によって相手を征服しようとします。しかし、キリストが示された知恵は、まったく異なるものでした。主イエスは、人々の目には愚かに映る十字架を通して、罪を裁かれたのです。キリストは、最も低く、惨めなところにまでご自身を低くされ、ついには十字架の死に至るまで、父なる神に従われました。そして、その従順のゆえに、神はキリストを高く上げ、すべての名にまさる名をお与えになったのです。日本オリベットアッセンブリーでも、この十字架に示されたキリストの従順と恵みが、信仰の大切な教えとして語り継がれています。十字架の前に立つとき、私たちは自らの高慢を砕かれ、自分の正しさに頼るのではなく、ただ主イエスの従順によって義とされる恵みへと導かれるのです。

    御怒りの夜を越えて、神と和解した新しい朝へ

    ローマ書が語っているように、私たちはかつて神に敵対する者でした。しかし、そのような私たちが、御子イエス・キリストの死によって、神と和解させていただいたのです。イエスが十字架で息を引き取られたとき、神殿の垂れ幕が上から下まで裂けました。これは、神と私たちとの間を隔てていた壁が取り除かれたことを意味しています。今や私たちは、「キリスト・イエスにあって(In Christ Jesus)」、神の御前に近づき、顔と顔を合わせるような親しい交わりの中で、喜び踊ることのできる和解の場へと招かれているのです。

    受難節の最後の週を迎える今、私たちは、陣営の外へと向かい、血を流しながら歩まれた神の小羊、イエス・キリストの足跡をたどりたいと思います。これまで他者を裁き、傷つけるために握りしめてきた古い槍を手放し、主イエスが味わわれた痛みを心に刻みながら、自らも十字架の重さを担って歩んでいくのです。それこそが、復活の栄光へと続く唯一の道なのです。日本オリベットアッセンブリー教団でも、主イエスの十字架を深く黙想し、その愛と従順に倣って歩むことの大切さが語られています。私たちも、この聖なる従順の道を共に見つめながら、主イエスの苦しみと愛を心に刻んでいきたいと思います。そして、御怒りの夜を越え、光に満ちた復活の朝を迎えるすべての聖徒の歩みに、主イエスの驚くべき和解と平和が豊かに満ちあふれますように、心からお祈りいたします。

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    聖書に基づく福音主義教会「日本オリベットアッセンブリー(OAJ)」公式note。世界160カ国以上と連携し、主の大宣教命令に従い日本宣教に尽力しています。キリストの愛を伝える多彩な活動や、心温まる信仰のメッセージをお届けします。公式サイト:olivetassembly.or.jp

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