
全国の観光地が「同じ顔」になっていく恐怖――映えの果てに、何が残るのか
高知の桂浜や、群馬の鳩待峠、栃木の大谷資料館など、全国の観光施設でリニューアルが進んでいる。
PPP/PFIをはじめとする官民連携のもと、かつての寂れかけたお土産屋さんは、明るく洗練されたオシャレなショップやカフェへと姿を変えた。
システム化され便利になり、キャッシュレスやスマートな導線によって施設としてのUXは格段に上がっている。経営的な持続性を取り戻したことも事実だろう。地域課題の解決や事業として、間違いなく大成功していると言え、素晴らしいことだと言える。
だが、全国各地を旅するなかで、私は拭い去れない強い危機感と恐怖を覚えるようになった。そして、同じような光景を見続けて、胸を衝いたのは感動ではなく「またこれか」という落胆だった。
「映え」と資本主義が手を組んだ結果、各地の観光地が急速に、そして深刻なまでに「同じ顔」へ塗りつぶされているからだ。
実質的なチェーン化と高額化する価格
この「映え偏重」の最も深刻な害悪は、見た目が洗練される一方で、肝心の中身——とりわけ「食や体験の質」が置き去りにされている点にある。
どこへ行っても、白や木材を基調としたシンプルな空間で提供されるのは、映える器に盛られた高額なメニューであることも多い。にも関わらず、口にしてみれば、丁寧に仕込まれた工夫の味ではなく、どこかのセントラルキッチンから運ばれてきたような味の場合もある。
洗練された空間代と映え代が上乗せされ、価格だけが跳ね上がっている。
私が普段からチェーン店を避け、地元の古くからある個人店へ足を運ぶ理由もここにある。
そこには、店主が素材と向き合い、工夫を凝らした手作りの「本当の美味しさ」があり、行くたびに深く感動させられる。効率や均一化を優先したチェーン店にはない、人間の情熱と工夫が宿っているからだ。
だが、いま各地の観光地で起きているのは、「システムと見た目だけが効率化され、中身はチェーン店のように均一化・高額化していく現象」ではないだろうか。
「映え資本主義」の果てに、将来何が残るのか
「映え」というSNSの拡散力と、最短で投資を回収したい資本主義の論理は、恐ろしいほど相性が良い。
過去にどこかで成功した「北欧風」「ナチュラルモダン」のデザインテンプレートをコピーし、映えるメニューを置けば、一時的に若者やインフルエンサーが集まり、確実な利益が生まれるからだ。
しかし、この安易な消費のサイクルが過ぎ去ったあと、私たちの将来には一体何が残るのだろうか。
10年後、20年後にブームが去ったとき、そこに残るのは全国どこに行っても同じような、陳腐化したデザインの残骸だけではないか。その土地が何百年もかけて培ってきた固有の歴史、人々の手仕事、歪みも含めた独自の風土は、効率化の波の中で漂白され、一度失われれば二度と取り戻せない。
私自身、茶道に親しみ、長年写真を続けてきた。
そこで学んだ「シンプルさ」や「侘び寂び」は、決して見た目を小綺麗に整えることではない。余計なものを削ぎ落とした先に残る文脈や時間、不完璧なものの中に宿る美を受け入れる心だ。
いま観光地に溢れているのは、そうした思想のない「模倣された形だけの侘び寂び」であり、本質を欠いた記号の切り売りに過ぎない。この現状を、私は強い悲観をもって見つめている。
喜多方で感じた「無知ゆえの敗北」
この均一化の波は、旅人の「歩き方」にも鋭い問いを突きつけている。
先日、福島県の喜多方を訪れたときのことだ。
本来、喜多方は豊かな名水に恵まれ、歴史ある酒蔵文化が息づく深い土地である。しかし当時の私はそうした予備知識を持たずに訪れてしまった。
結果として私が見たものは、どこにでもある「綺麗にリノベーションされた街並み」であり、恥ずかしながら「無電柱化されたどこも似たような街だな」と感じて通り過ぎてしまったのだ。
あとから名水や酒蔵の歴史を知り、激しい後悔と勿体なさに苛まれた。
全国が均一なデザインで覆われていく時代において、私たち旅人が知識を持たずに歩くと、資本主義が用意した均一な表層だけに目を奪われ、その奥にある本質的な価値を見落としてしまう。
インフルエンサーのお手本をなぞる「答え合わせのスタンプラリー」も虚しいが、かといって無知のまま歩けば「均一な表層」に飲み込まれて終わる。このジレンマに、現代の旅人は晒されている。
旅を取り戻す——文脈の読解と、人のぬくもり
では、私たちはどうやってこのパッケージ化された消費の波に抗えばいいのだろうか。
一つは、目的地をなぞるためではなく、「土地の文脈を透視するための知識」を持つことだ。
知識とは、SNSのスポットリストではなく、表面的なモダンデザインの奥にある風土や歴史を読み解く「レンズ」である。喜多方の水の豊かさを知っていれば、私は均一な街並みの奥にある本当の価値に出会えていたはずだ。
そしてもう一つ、どれだけ効率化されても絶対に複製できないのが「人のぬくもり」である。
数年ぶりに桂浜を訪れた際に、色々リニューアルされていたことに気づく。お土産屋さんは魅力的なラインナップで、ご飯も美味しいものが並んで確かに機能的だ。しかしまたこのパターンかという落胆があった。そんな中、無料駐車場からの送迎バスに乗ったときのことに一つ感動した話がある。それは、車内で地元のバス会社の添乗員のおばちゃんが、この土地の歴史や地元の昔話を気さくに語ってくれたことだ。
またある時、四国を一人旅した際に、偶然乗ったバスでお客さんから地元の話を教えてもらうこともあった。
また先日、尾瀬を訪れて山小屋に泊まった際には、見知らぬ宿泊客と囲炉裏を囲み、取り留めもない偶然の会話に花を咲かせた。
ガイドブックにも、洗練された看板にも、インフルエンサーのSNSにも書かれていない「予期せぬ他者との出会い」。これこそが、パッケージ化された現代において、最も心に鮮烈に刻まれる旅の醍醐味ではないだろうか。
私たちは何のために旅をするのか
あらかじめSNSで検索した「正解の景色」を確認し、同じ構図で写真を撮り、どこでも買えるような食べ物を口にする。そんな「スタンプラリー」のような旅に、私たちは本当に満足しているのだろうか。
効率化と「映え」という同調圧力が全国の景観を塗りつぶしていく今、私たち社会全体に問い直されているのは、「旅の価値をどこに見出すか」という美意識そのものである。
洗練された空間の裏側で失われつつある「本物の工夫」や「風土」、そして「人のぬくもり」。
それらを見極め、すくい取るためには、土地の文脈を読み解く「適切な知識」とそれに気づくための自問自答。そして、寄り道や遠回り、直感、予期せぬ出会いを受け入れる「偶然を楽しむ心(余白)」を持って旅に出ることが、今まさに私たちに求められているのではないだろうか。
こんにち、体験型観光も着目を浴びつつあるように、消費者の目線が変わることで、供給側の意識改革にもつながり、多様な観光が生まれるのではないか。知的好奇心の高まりによる世の中の変化を楽しみたい。